《ナメコ序章》
自然の中にいると、時々自分が人であることを忘れる。奥深いブナの森の懐に抱かれると人類であることを忘れてしまう。だから『聖人の教え』『美談』『道徳』『人の心の優しさ』『美しい愛』・・・こんなものまで人間が勝手に作り出したエゴイスチックなものであるかのように感じられてくる。
大自然の中で、延々たる大循環が行われている。一粒の種から発生したブナ。枝を広げ成長して、そのテリトリーの中で副次的な生命を数多く育て、天から授かった我が存在の意味を知り終え、何百年を経た後、やがて大地に倒れる。
雨が降る。
雨音はまるで交響曲のように降り注ぎ、大地に倒れたブナにに第三の生命を宿らせる。指揮を執っているのは雲であり、伴奏をしているのは風である。やがてブナは腐り、新しい生命の温床となる。腐って土に帰る前に、もう一仕事残っているのだ。
やがてそこに、芽吹くようにひとつの可愛らしいキノコが出てくる。次々に頭を出し始める、茶色いキノコの傘は、ヌルリとした粘液に覆われている。近づくと、微かにキノコの香りがする。ナメコである。ブナの倒木にしか発生しない。植え付ければ、広葉樹ならどんな樹種でも発生するのに、天然ではほとんどブナにしか発生しない。何故そうなのか・・・その訳を人類は知らない。