カオリタケ B

 目が覚めた…。まだ薄暗い。私は、巴投げのようにガバッと蒲団を撥ね除け、階下に下りた。今日は何日なのだ。時計を見ると時間は五時を少し回っている。私は早速テレビのスイッチを入れた。チャンネルを変えてもなかなか日にちが分からない。私は居間の電話の受話器を取り上げ、177を押した。受話器から天気予報のテープが流れる。

 「〇〇気象台の、九月二十二日、午前五時の気象情報をお知らせします…」

 やはり今日は二十二日、昨日の「翌日」であった。それにしても…どの二十二日なのか。夢の中の二十二日なのか、本来の二十二日なのか…。そう考えて、私は苦笑した。受話器を持った感触、この朝の冷たい空気を吸い込む感触、…私は顔を両手でパンパンと叩いた。こんな感触が夢であるわけが無い。だとすれば今日は正真正銘の二十二日だ。昨夜もカオリタケを食べたが、結局寝てしまっただけで、何も起こらなかったのだ。夢も見ていない。それに…、もしこれが夢だとしたら、こんな恐ろしい夢はない。私は今度はほっぺたを思い切り抓ってみた。痛い…。絶対にこれは夢ではない。

 「夢ではないぞ…夢ではないぞ…」といい加減な節を付けて大声で歌いながら私は台所に行った。そして、そこで私の身体は硬直した。台所の流しの中に箸を突っ込んだままの丼を発見したからだ…。うどん…、うどんを食べた跡だということは一目瞭然である。昨日の夢の中で…。私は床に倒れ込んだ。

 「嘘だ…。」

 私は呻くように叫んでいた。床のひんやりした感触が現実を告げていた。私は夢を見ているのではなかった。私は起き上がり、外に出た。そして駐車場に行き、車を見た。あぁ…、車の運転席のガラスが割れている。私は頷いた。自分に言い聞かせるかのように、何度も何度も頷いた。これは、夢だ。夢の続きなのだ。落ち着け。普通の夢ではないんだ。カオリタケを食べると見る夢だ、だから普段見る夢とは本質的に違うのだ…と。

 バイクの音がして、新聞を配達に来た。私を見るとにこやかに挨拶をして、寒くなりましたね、と言いながら私に新聞を渡した。私は自分以外の人間を見たことで勇気づけられたのか、少し冷静になっていた。別に夢でも現実でも良いではないか…と、私は思おうとした。私はここにいるし、周りの人だって皆普段と変わりなく、同じように暮らしている。私は家に戻り、居間で新聞を広げた。一面が航空機事故の写真と記事で埋まっていた。「原因はエンジン火災?」と見出しが付いている。昨日私が墜落を阻止したはずの飛行機は、やっぱり昨日、墜落してしまっていた。分かっていても心が重くなった。しかし私は考え直した。実際は墜落していないのだ、と。この現実的な夢は、ご丁寧にも現地へ新聞記者を派遣し、記事を書かせ、輪転機を回し、新聞を何千万部と刷り上げ、それを配達までして、起こりもしなかった事件を報道している。ご苦労様なことだ…。そしてこの記事は日本中、いや、世界中で何億人もの人の記憶に焼き付くのだろう。しかしそれは、現実ではないのだ。現実は、この私が墜落を阻止し、何事も起こらなかったのだから。

 昨夜の杉原との会話を思い出した。そう、夢の中にいると分かった以上、今日は忙しい。六時になり、ニュースが始まった。一体今日は何が起こるのだろう。私はニュースを書き留めておくために紙と鉛筆を用意した。そしてまた苦笑いをしてソファーに寝っ転がった。夢の中で書いたメモを、夢から覚めた時、一体誰が読むのだろう。しかし私は思い直して起き上がり、やはりソファーテーブルに紙と鉛筆を置いた。一日の出来事全てを丸暗記するほど自分が頭が良くないことに気が付いたからである。全部書き留めておいて、寝る前に暗記をすれば良いではないか。そう思ったのである。

 考えてみれば、今日の夢の中から現実の世界に持ち帰れるものは、夢の中で体験した自分の記憶だけなのだ。しかし…と私は思う。そもそも、「夢」とは一体何だろう。夢とは睡眠中に於ける「過去」の断片的な記憶の発露ではないのか?。もっと深い意味があるのだろうか。そう言えば、今まで一度も体験したことの無いことをしている時、あるいは今まで一度も見たことの無い風景に出くわした時、何か以前に同じことを体験した、あるいは同じ風景を見たことがあると感じたことが無いだろうか。私は以前、初めて行った漁師町の漁港の風景を見て、目にした風景が、以前私がどこかで見たことがある風景だと妙にリアルに感じたことがある。それは一体何を意味するのか。仮に夢でそれを見て覚えていたとすると、記憶が現実に先行していたことになる。記憶の先行…これはつまり「未来」の記憶と言う意味だ。時が普遍的で一様に流れて行くものであれば、こんなことは起こりえない。しかし時間というものが、もし、普遍的でないとしたら、それどころかそんなものが初めから無いとしたら…。一見不思議なことも説明がつくような気がするのだ。私は「時間」というものに対して、かなり懐疑的になっていた。当然だろう。こんな体験をすれば、誰だって考え直したくなるに違いない。

 それにしても…例えばここにあるテーブル。手で叩けばパンパンと音が出る、このテーブル。夢の中にでてくる物体は、後で思い返してみてもけっこう曖昧なものである。そこにはただ、「居間のテーブルがあった」と言う程度の認識があるだけだ。今私がしているように、叩いて音がするだとか、下から上まで眺め渡してちゃんと細部が見えるとか、そんなふうにリアルに夢を見たことは、誰もないはずだ。登場人物にしても、今まで友人と話していたはずなのに、いつしかそれが妻に変わっていたり…。いい加減で曖昧なものである。一般的な夢がそんなものであることは誰もが同意してくれるだろう。しかし、今私が見ている夢は、そんな夢ではないのだ。頬を抓れば痛い…テーブルを叩けばちゃんと音がし、人ははっきりとものを言い、ここで首を括れば、絶対に自分が死んでしまうということが断言できる夢なのだ!。ああ、これは絶対に、夢では無い。それでは一体何なのだ。そう、もしここで私が死んだら、どうなるのだ?。夢から覚めて、生き返るのか、それともそのまま私の死とともに永久に私は無くなってしまうのか…。

 「ただいま、関東地方で地震がありました…」

 突然テレビの地震のニュースが私の思考を遮った。千葉を震源に各地の震度がテロップで流れている。最大で震度4。南は静岡、北は青森までかなり広範囲の地震である。時刻は七時十二分。私は早速メモをとった。各地の震度も記入しておいた。さきほどまでの狂おしい思考とは別に、私は一方でしごく冷静でもあった。そもそも元来、私は楽天的なのである。物事はなるようにしかならないのだ。地震のニュースは私が夢から覚めて、明日、テレビ局に行っておこなう予言にはうってつけだ。たぶんこのニュースで私は信用を得るに違いない。私は新聞のテレビ欄を眺めた。そして予言をするのに都合の良い番組を調べた。

今日起こる事件や出来事は夜のニュースを見れば良い。夜の八時、ボクシングのバンタム級のタイトル戦がある。大詰めが近ずいているプロ野球の試合もある。これらは結果も覚えやすいだろう。杉原の言っていた競馬の結果はフリーダイヤルで夕刻に聞けば良いし、株価も夕方でいい。私は今日の予定を次々にメモをし、調べたり、結果を聞く時間も記入した。その結果、なにも今日一日テレビにかじりついてばかりいる必要の無いことが分かった。全ては夕方から夜に行なえばいい。私はほっと息を吐き、近くにある喫茶店にでかけることにした。

 窓ガラスが割られている車はやめて、軽トラックで喫茶店に行くと、顔見知りの人間ばかりがたむろしている。近所の土建屋のカミさんが趣味でやっている小さな喫茶店で、客はほとんど地元の常連ばかりなのだ。空いた席に座り、コーヒーを頼むと、向こうにいた同級生の山本が私の席に来て話しかけてきた。一昨日の日曜日、念願のオオモミタケを見つけてきたらしい。どこで見つけたかは言えぬが…と山本は勿体をつけ、まだ家に置いてあるが今夜二、三人呼んで一杯やらないか、ということであった。オオモミタケは私も過去に二回ほど食べたことがあるだけで、ここら辺りではよほど高山に行かないと見つからない。なんでも立派なヤツを六本も採ってきたらしく、山本の鼻が自慢げにヒクついている。そりゃあ、そうだろう…。なかなか見つからないキノコなのだから。しかし私は今夜は用事があるからと、断った。山本はいくぶんガッカリした様子であったが、今夜私は忙しいのだ。それに私が発見したカオリタケと比べたら、オオモミタケなどは問題外の味だ。珍しいから旨い…といった類のものである。もちろん、山本にそんなことは言わなかったが。

 九時近くになって、客も疎らになった頃、喫茶店の電話が鳴った。電話に出たカミさんが、突如大声を上げている。残っていた客も一斉にそちらを振り返った。電話は旦那の会社からであった。カミさんの旦那、つまり土建屋の社長である田村がバックホーの下敷きになり、今警察と救急隊が現場に向かったという知らせであった。カミさんは真っ青になりながらも急いで店を閉め、客の中の一人、近所に住む同業者の車で現場に向かうことになった。私も乗ってきた軽トラックですぐ近くにある現場に向かった。もちろん、私が現場に向かったのは、野次馬根性からではなく、明日、この夢が覚めたら田村に事故を起こさせないためにである。そのためには現場の状況を見ておく必要があるからである。

 現場に着くと、もう一目で社長が助からないことが分かった。大きなバックホーの車体の真下から、足が二本突き出ており、それはピクリとも動かなかった。足が挟まれたのならともかく、頭ではどうしようもない。カミさんは半狂乱になって旦那の足をさすっている…。私は現場にいて一部始終を見ていた社員に状況を聞いた。現場は林道工事で、法面の上に置いてあったバックホーを下に降ろそうとした際に、バックホーの山側のキャタピラが落石に乗り上げ、バランスを崩て転落したという。そして悪いことにバランスを崩した時に、社長が飛び降りようとして逆にさかさまになり、頭を挟まれたのだと…。年配の社員は泣きながら話した。現場の誰もが興奮し、ざわめいていたが大型クレーンが到着したのを機に、私は現場を後にした。事故の発生時間は八時三十分。私は胸ポケットから手帳を取り出して、それを記入した。もう時計は十時を過ぎている。私はそのまま軽トラックで町に向かった。杉原に会おうと思ったのである。事故現場を見たせいか、私の心には奇妙な不安感が渦巻き始めた。それがこの夢の中の出来事に対する使命感から来る焦燥感なのか、それとも別なところから来る不安なのか、私には分からなかった。

 保健所に着いた。しかし杉原の姿はなかった。所員に訊くと、出張だと答えた。私はおそらく杉原はカオリタケを持って分析に出かけたのだと思った。昼過ぎには帰ってくる予定ですが…と所員は言った。私は頷き、保健所を出た。車をそのまま保健所の駐車場に置き、私は町をぶらついた。町の中心部を流れている川に架かる橋の上で、欄干にもたれ掛かり、私は川の流れに目をやった。左岸側が公園になっていて、老人が二人、ベンチに腰をかけて何やら話している。雨が少ないせいで川の水量は低い。そして今日も雲一つ無い晴天であった。そしてこの城下町に住む人々は、私の心中とは別に、穏やかに時を過ごしていた。私はぼんやりと考え始めた。「過去」「現在」「未来」、そしてそこに流れ、それらを結びつけている「時」について…。

 過去と未来は、「現在」というものを解明しないと分からない。私は先程からそう思い至っていた。「現在」とは何か。…仮に今私が、「現在とは何か」と口に出したとする。そしてそれを口にした時点で、もうそれが過去に属しているのであれば、現在とは、刻一刻に過ぎ去って行く「点」でしかない。つまり、現実には有りえない「点」である。数学上の「点」と同じ感覚だ。

しかし…と、私は思う。現実に我々が、そして我々以外の全てのものが三次元の尺度を持って存在している以上、一次元的に、あるいは二次元的に現実を捉えること自体が間違っているのではなかろうか。ましてや、それに「時間」という曖昧模糊の存在を加えて四次元などという表現をすること自体、本当に意味があることなのだろうか…。現実の我々の存在を、数学者や物理学者のように計算上理解することははなはだ難しい。例えばピアノの鍵盤を一つ押す。深く、美しい音色が発せられ、指を離さないでいると、その音は糸を引くように、僅かずつ音量を減少させつつも、延々と室内に谺する。その美しい余韻を感じている時点で、最初に力強く発せられた時のAの音は、果たして記憶に残る過去でしかないのだろうか。それは違う…と私は感じる。思うのではなく、感じるのである。

 我々は、時間という概念に縛られているだけなのだ。時間が一様に、普遍的に流れていると、何となく思っているだけなのだ。時間とは…人間が勝手に作り出した、計測用の尺度でしかない。速度を測り、距離を測り、運動量を計算し、年表で過去を整理し、年間のスケジュールを立て、季節の移り変わりを覚え、日々の予定を書き込み、他人と共通の認識をさせるための、尺度でしかないのだ。つまり時間とはどこにでも売っている巻尺みたいなものであり、単なる便利な道具に過ぎないのだ。そして我々は、その道具によって自らを縛り、焦ったり悔やんだりしているだけなのではなかろうか…。人間が発明した車。これがどれだけ人を幸せにしたのだろうか。私は自分の思考がどんどん流れて行くのが分かった。例えば車は、一見便利な道具としてこの世に生まれた。しかし、自ら作り出したこの道具によって、人類はただ「忙しくなった」だけなのではないだろうか。それによって道路が整備され、産業が拡大し、物質的には豊かになったかも知れないが、それがそのまま我々の幸せにつながっているとはとうてい思えない。「時間」も同じような罪を持っているのではないだろうか。時間がこの世に無かったら、と言うより時間という概念がもっと違ったものであったら、人々はもっと違った生き方をしているのではないか…。私は橋の上から、落ちていた小石を拾って川に投げた。小石は放物線を描きながら、水の流れに小さな波紋を立てた。そう…、この動作全てが、少なくとも、現在なのだ。「時間」はそこには介在できない。

 そして「過去」。時間が単なる道具である以上、過去とは全てが現在に含まれる。つまり全てが現在進行中なのである。では「未来」はどうか。未来とは時間を基準にした未来ではなく、自分が今持っている「意志」の方向に過ぎない。つまり自分が志向するあらゆる行動が未来を作ってゆく。そして過去を含めた現在が、それを補佐してゆく。だから、何かの原因で過去に戻ることだって可能なのだ。そこに意思と何かの原因があれば…。私はここまで自分の理論を組み立て、小さく頷いた。

 私はこの自分の考えから、今私が置かれている状況をなんとか説明しようとした。私はカオリタケを食べ、現実的な夢を見ている。そしてその夢の中の出来事は翌日、つまり未来に起こる出来事なのだ。未来が「意志」の結晶であるなら、カオリタケにはその意志を強くさせる力を持つ成分が含まれているのかも知れない。しかし…私の意志を土台にした行動の未来ならばそれで説明がつくかも知れないが、私の見た夢に登場したのは私ばかりではない。私以外人間の行動はどう説明がつくのだ?。現に、今河岸の公園でのんびりと世間話をしている二人の老人…彼らは私の意志とは無関係に登場している。では、未来の規定自体が間違っているのか。ひょっとしたらこの世にはすべてが包括された「現在」しか存在しないのではないだろうか。…私は自分の思考がまたもや曖昧になってきたのを感じた。もっともこんなに簡単にこの私の不思議な体験が説明できるとも思えなかったが。

 保健所に戻ると、杉原が駐車場で手を振っている。試験設備が混んでおり、俺が自ら行って割り込ませてやったと得意気に語った。結果が出るのは2、3日かかるが、ありゃ大丈夫だ、今夜は試食といくか…とニヤニヤしながら両手を嬉しそうに擦り合わせる杉原を見て、私は狼狽した。今私の手元にカオリタケは無いのである。昨日杉原に二本のうちの一本を試験用として提供し、残った一本は食べているのだから、残りが無いのである。もっとも、幼菌なら現時点で一本だけ生えているはずだが、二人で食うには小さすぎる。困った私は咄嗟に嘘をついた。実は昨日、林道で車上狙いにあい、財布もキノコも盗られてしまった…と。財布を盗られたのは本当だからまったくの嘘を言っているのではない。今日軽トラックに乗ってきたのも、乗用車の窓ガラスを割られたからだと言うと、杉原はがっかりした様子で、そいつは残念だ、最近は車上狙いが多いから気を付けろよ、と言った。そしてもうキノコは生えていないのかと訊いてきたが、私は首を横に振った。発生場所は具体的には杉原に言っていない。今度の休みには二人でキノコ採りに行くか…とお茶を濁し、昼食を一緒に食おうと言う杉原を断わり、ちょっと急ぐからと保健所を後にした。

 実際私は杉原と話しているうちに、昨夜、杉原が私に話していたことを思い出していたのである。これは少なからず不安であるが、やはりチョッピリ楽しいことでもあった。上村佳代の話である。たしか今日、火曜日は休みのはずである。昨夜杉原は「俺なら夢の中で彼女を口説くね…」と言った。私は昨日は頭が混乱してそれどころではないと思ったのだが、今日、杉原と話をしていて少しばかりイタヅラ心が起こってきたというわけだ。別にどうこうするというつもりはないが、そしてこういうことに関しては結構気後れしてしまう私であるから、せいぜい他のメンバーよりは仲良くできれば…という程度の気持ちであったが、所詮は夢の中の出来事である。明日になって後悔するよりは一度自分を試してみても面白い、と思ったのである。それに彼女の態度は、少なくとも、それほど私を嫌ってはいないように思える。

 今では第三セクターの経営になった鉄道の上を陸橋が架かっている。少し先で工事をしているため車が渋滞し、私の車は陸橋の真上で止まっていた。私はいつもは行き過ぎるだけでろくに見たこともない線路を眺めるともなく眺めた。単線であるから、すぐ先の駅のところでホームの左右に線路が別れている。陸橋の真下を二両編成の電車がゆっくり通り抜け、ポイントの箇所で少しガタガタと揺れながら駅のホームの左側に滑り込んで行くのが見えた。数人の乗客が降り、同じくらいの僅かな人々が列車に乗り込んでいる。反対方向を見ると、一直線に一本の線路が続いているのが見える。再び駅のホームの方向を見る。線路は二股に別れている…。突如私の心の中に、またもや奇妙な不安感が渦巻き始めた。それはなんとも言いようの無い、強いて言えば「不安の前兆の不安」とでも表現すべき不安感であった。…私は、何か大事なことを忘れているのではないか…。何か大事なことに気づいていないのではないだろうか…。思い出せそうで、思い出せない…、すぐ喉元まで出かかっている言葉のような、そんな苛立たしい気持ち。

 …激しいクラクションの音で我に返った私は、私の前方に車がいないことに気がついた。クラクションは私の後方に数珠繋ぎになった車から発せられたものであった。私は慌てて車を発進させ、陸橋を下り、町の中に入った。車がやっとすれ違うことができるくらいの狭い路の両側に、小さな洋服屋とか駄菓子屋、八百屋や肉屋が軒を連ねている。昔のままの佇まいだ。町の周辺は大きな本屋だとかスーパーが建ち始めているが、町の中は昔のままだ。私が本屋の角を曲がり、少し行くと、上村佳代が店の前で帚を持って路を掃いている。私は内心ほっとした。もし彼女が家の中にいたら、私は玄関を叩いて、来訪を告げなくてはならない。しかし彼女が外に出てきていれば、偶然通りがかったと言い訳が立つからである。私が店の前に車を停めると、彼女は大きな目を更に大きく見開いて、びっくりしたぁ…、と言い、屈託なく笑い出した。その何の衒いも無い笑顔に、私は再びほっとした。彼女の明るさは天性のものである。そしてその明るさは、決して男に媚を売るものではなく、純粋な、天使のそれであった。

 ああ、そうそう…会ったついでに…と、私は頑なに偶然性を押し通しながら、ちょっと話があるのだが、そこでお茶でも飲まないかと、彼女を誘った。断られてもともとであると覚悟しての誘いであったが、彼女は、ええ、いいですわ…とためらいもなく承諾し、別に宜しければ家に上がっていただいても結構ですが、と言ってくれた。私は年甲斐もなく有頂天になった。それじゃ、お言葉に甘えて…と、私は彼女が開けてくれた玄関をくぐり、店の中に入った。小さく、質素ではあるが掃除が行き届いた小綺麗な店である。彼女の潔癖さが感じられる。杉原やキノコの会のメンバーとは何度も来ているが、店の休みの時に彼女と二人きりというのはもちろん初めてで、私は訳もなく心臓がドキドキしていた。こんな気持ちはとうの昔に忘れていた。

 ひょっとしたらお食事はまだですか?と、気を利かせてくれた彼女にずうずうしくも頷いてから、慌てて首を振り、いや、そんなに腹は減ってないから…と、遠慮したのだが、彼女は即座にカウンターの中に入り、昨日の残りですけど…と煮物やらフライを暖めている。私は落ち着かず、カウンターに腰を掛けながら煙草に火を付け、店の中をあちこち眺め回していた。壁に料理の品書きがいろいろ張り付けてある。彼女はなかなか研究熱心で、しかも遊び心も持ち合わせていて、自分の考案した料理に自分で名前を付けている。初めて来た客は料理の名前がなかなか分からず、必ずどんな料理か尋ねるのであるが、そんな時はいつも常連客が説明することになっている。

 例えばおつまみの「花筏」と言う料理。ハナイカダと読むのだが、楕円形に切り抜いた薄いチーズの上に海苔とキュウリの薄切りを乗せ、その上に数個の大粒イクラが乗っけてある。ハナイカダというのは葉の真中に花が咲く変わった木だが、説明されてみるとなるほどと思うのである。もっとも常連客はその新顔に、まあ、食べてみなさい…後で説明するから…と言うことのほうが多いのだが。

 私は彼女が作ってくれた料理を、ほんのりとした幸せの中で食べていた。ビールは如何ですか?と彼女は言ってくれたが、さすがにそれは断った。彼女は私に対して、驚くほど無防備であった。他のメンバー、例えば杉原に対しても彼女は同じ態度で望むのだろうか…と、私は思った。そしてそう思って彼女を見た途端、私は自らを恥じた。カウンター越しの彼女の優しく純真な瞳は、そんな私の邪心を陽光に晒し、涼風に胡散霧消させる力を持っていた。彼女には、たぶんそれは彼女の意識外のことであろうが、そんな清涼感が感じられた。私は自分自身がとてつもなく野卑な男に思えてきて、俯き、言葉を失った。

こんな気持ちは生まれてはじめてであった。

私の心の中に、瑞々しい新たな感情が湧き出て来るのを感じた。私は自分でも不思議なくらい、急速に彼女に魅かれていくのを感じていたのだ。

 ところで、お話って、何でしたっけ…と、彼女は私の食事の終わるのを見計らって訊いた。私は初め、次回のキノコの会の打ち合わせ程度のことを彼女と話すつもりであったが、気が変わっていた。私は先ほどから、彼女に私のこの奇妙な体験を話そうと思っていた。彼女は私を二重人格だと思うかも知れない。いや、それどころか気が違ったかと思うかも知れない。なにせ彼女に対しては夢を裏づける証拠なども無い。

それに第一、今日が夢の中なのだ。

彼女に、今日は夢であると言えば一体どう思うだろう…。しかし、私は断固として決意していた。夢の中でも構わない。いや、たった今自分の心の中に湧き出たこの彼女への気持ち。…これは決して夢などではない。私は今すぐに彼女に対して真実を話すのだ。話さねばならない…。

 私はゆっくりと、順序立てて、彼女に話をした。カオリタケを発見した時間から、今彼女と向き合っている時間までの出来事を、ありのまま、できる限り冷静に話していった。途中で、ちょっと待って…と、彼女が紙と鉛筆を手元に置いて何やら書き込むのを見ながら、私は目蓋を半眼に閉じ、ゆっくりと思い出しながら喋っていった。…そして何分か何十分かが経ち、私が彼女の店の前を通りがかったのが偶然ではなく、必然であったことを言い終えた時、俯きながら何かを紙に書き込んでいた彼女の手が止まり、その瞳が私を見た。

そして視線を外さないまま、紙を手に取って私に渡した。こういうこと?と、彼女は私に言った。私は紙を見た。そこには私の言ったことが順番に書かれていた。いや、書かれていたと言うより、図示されていた。九月二十日、二十一日の夢、現実の二十一日、そして今日、二十二日の夢…。それぞれの日に起こった出来事が四角の枠に囲まれ、その関係を矢印で示してある。そしてその所々にスペードのようなマークが書かれている。これは何だと訊くと、彼女はカオリタケだと答えた。私は内心、彼女の頭の良さに舌を巻いた。そして私のこの一見ばかばかしい話を誠実に聞き終えてくれた、その真摯な態度も正直、嬉しかった。彼女は私の隣に座り、紙に書いた自分のメモを真剣にチェックしていった。

 つまりこういうことだわ…と、彼女は私に説明を始めた。

まず最初に、カオリタケを発見した。その九月二十日の夜、あなたはカオリタケを食べて翌日の夢を見た。

そして目が覚めたら、夢と同じような出来事が起こった。現実に飛行機の墜落を阻止し、泥棒を捕まえた。

そしてカオリタケをまた食べて、今日の夢を見ている…と言うわけね…。

でも私、話を聞いていてもう一つ別な考え方があると思ったのだけど…と、彼女は遠慮がちに言った。もう一つの考え方というのは…と、彼女は続けた。

あなたは二十日の夜にカオリタケを食べ、そのまま翌日を迎えた。

そこで飛行機が落ち、あなたは車上狙いに遭った。

そしてあなたはその日もカオリタケを食べ、

それで何事もなく次の日、つまり今日を迎えた。

ただそれだけのこと、とも言えるんじゃないですか?。つまり飛行機の墜落を阻止して泥棒を捕まえたのが実は夢で…、だって考えてもみてくださいね、未来の出来事を夢に見ると考えるより、その日起こったことを夢に見たと考えたほうが自然じゃないかしら?…と。

 私はあまりのショックで軽い目眩を覚えた。彼女は私の話をたった一度聞いただけだというのに、なんと素晴らしい回答を与えてくれたのだろう!。私は即座に彼女の考えに飛びついた。当然だろう。これで辻つまが合うのだ。そうなのだ。

昨日の出来事が夢だったのだ!。

なんとばかばかしいことに自分は悩んでいたのだろう。確かにその夢は現実的ではあったけれど、言われてみればその日に起こった出来事をその日の夜にまざまざと夢に見たとしても、そしてそれを自分の希望通りに変えたとしても、別段不思議でも何でもないではないか。

 私は飛び上がるほど嬉しかった。無条件に納得ができた喜びは私を舞い上がらせ、私の体をカウンターの椅子から立たせ、両腕に彼女の体を抱かせていた。すぐに私は気がついて両手を離し、彼女に謝った。しかし彼女には私の喜びが伝わっていたようだ。少し恥ずかしそうに下を向いただけで、くすくす笑っている。そう…笑われても仕方がない。私は本当に馬鹿だったのだから。

 私たちは、もう一度紙切れを見ながら、特にカオリタケについて整理した。二十日の日の夕方にカオリタケを五本見つけて、そのうちの二本を採った。そのうちの一本は形状を調べるために柄とか傘を切り刻み、顕微鏡などで調べた。他の一本は柄と傘を切り放し、傘を紙の上に置き、胞子紋を調べた。そして切り刻んだ方を焼いて食べ、眠たくなって寝てしまった。次の日はカオリタケの写真を撮りに出かけ、三本残っていたうちの二本を採り、幼菌だけはそのまま残しておいた。そしてその二本を持って杉原のところへ行き、一本を成分分析のために渡した。そして残った一本を夜、うどんで食べた。そして眠たくなり、例の夢を見た。そして夢から覚めた。うむうむ…と私は頷いた。これで完璧だ。私はカオリタケを食べたから夢を見たと信じていたが、これだとカオリタケと夢は関係が無くなる。ただ、カオリタケを食べると眠たくなるというのは不思議であった。

 

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