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そのG
2月2日
無茶苦茶の道である。ほぼ平坦なのだが、凸凹がひどい。体がかなり疲れてきた。絶えず上下に揺さぶられ、時々座席から体が浮く。雨が降ったあとのぬかるみだと、はっきりバスがスリップしているのが分かる…。幸い乗客が少ないので、並んだ2座席を一人で使うことができるから、皆、手すりにつかまって振動に耐えている。これは非常に疲れる。
昼の食事の時に運転手に聞くと、クヤバまで今夜の夜中に着くと言う。やっぱり4日かかるなんて嘘っぱちだ。やれやれ、飢え死にだけは免れそうだ。
時々泥に埋まって動けない乗用車や、転倒して転がっている小型トラックを見かける。スピードを落とすと泥にはまり込んでしまうためか、バスはブンブン飛ばす。それゆえにますます振動は激しさを増す。乗客も運転手も僕も、とにかく必死である。もう誰も笑わない。
そして午後の2時、再びケブラ(故障)!
次のバス停に近いのか、2時間ほどで修理の人間がやってきて車を直す。今度の故障はそんなに深刻なものではなかったようだ。バスは再び走り出し、次のバス停に到着した。そこでまた乗客の半分ほどが入れ替わる。ひょっとしたら最初から最後まで乗っているのは僕一人じゃないのか?。ポルトベーリョとクヤバなら飛行機で行ったほうが早いのはもちろん、途中の食事代などを考えたら安いのかも知れない。僕は「バス旅行」にこだわり過ぎていたかもしれない。…まぁ、今からそんなことを言っても後の祭りだが…。
バスに揺られすぎたせいか、食欲がない。夕食は甘い菓子パンとカフェ。おまけに便秘である。気分は当然、良くない。うぅ・・・早くブラジリアに帰りたい。
7時PM。内心恐れていたことが起こった。バスがついに泥の中にはまり込んだのだ。修理ならまだしも、泥に埋まったバスをどうするのだろう。またバスを乗り換えるのか?。乗客が運転手となにやら話をしている。対策を話しているのだろうか。
10時ごろ、馬鹿でかいトレーラーがやってきた。そしてあっという間にバスを引き上げてくれた。こんなところにもトレーラーがあったのか。トレーラーの運転手にバスの運転手が100コント払うのを見た。個人営業か?このバスは…。普通なら銀行振込だろうが。このバスの料金にはこういった経費も含まれているのだから、あまり儲からないな。
ショヘール(運転手)のところに行って少し話をする。どこに住んでいるのかを聞くとクヤバだと言う。バスの運転手は走りっぱなしだから、途中で交代するのかと聞くと、しないと答える。大変な仕事だが、考えてみれば故障したりこうやって泥にはまり込んだりで、確かに休憩することはできる。上手く出来ているといえば出来ている。我々乗客にしても、ぐっすり寝られるのはバスが動いていない時だけなのだ。
「Sempre!(いつものこった!)」 泥にはまり込むのは日常茶飯事らしい。日焼けなのか地黒なのか、黒い顔をしたショヘールは真っ白い歯を剥きだして、笑い飛ばした。
2月3日
朝の8時に、また泥に埋まる。昼頃まで待って、また昨日と違うトレーラーがやってくる。ここらあたりじゃ、トレーラーの仕事が流行っているのかもしれない。多分クヤバ、
ポルトベーリョ間を何台もトレーラーが往復しているのではないか?。道で何台も車がはまり込んでいるのだから、走ってさえいれば仕事にありつけるという訳だ。きっとそうに違いない。だからバスも引き上げ料金を現金で払わねばならないのだ。それにしてもこれがポルトベーリョとクヤバをつなぐ唯一の幹線道路なのだから驚く。
道が良くなってきた。舗装されているわけではないが、凸凹が少なくなってきた。乗客に聞くと、後1時間ぐらいでクヤバだと言う。
1月31日の夜に出発し、2月3日の夜に着くのだから、丸々3日かかったわけだ。僕はこの時になって初めて、彼らの言ったことが分かった。彼らとはアマゾン川の船の乗客や若造のことである。彼らは間違っていなかった。僕がポルトベーリョ、クヤバ間の行程日数を尋ねた時に、彼らは2日〜6日と答えたが、その答えは正しかったのだ!。2日で行った人もいるし、6日かかった人もいるのだ。僕にしたってこの行程を「3日」と断言する自信はないし、運が悪ければ(たとえば救出にくるトレーラーが故障したとか…)、6日かかるかもしれないのだ。今は雨季だから雨がたくさん降るが、たとえば乾期であればすんなりと2日で着くこともあるのだろう。僕が尋ねた時に多分彼らは「故障するし、泥にはまるし…」等と説明を加えていてくれたのだろうが、僕がその説明を理解していなかったのに違いない。若造…ゴメン。お前は間違っていなかった。
到着したクヤバはけっこうな街だった。
これもクヤバの写真ではありませんが、淋しいので…
クヤバに着いた僕はすぐにバスの時刻表と料金を見た。もちろん時間よりも料金が心配だったのは言うまでも無い。この時の僕の所持金は150コントを切っていたのだ。
120コント…。ギリギリのすべり込みセーフ!もし若造がTシャツを買ってくれていなかったら、本当に危ないところだった。ここからブラジリアまでは道が良いらしく、2日で到着するらしい。今夜のジャンター(夕食)も含めて5食程食わねばならないが、なに、すきっ腹にピンガの3杯(3コント)も飲めば眠れるだろう。
出発は夜中だった。今まで乗った長距離バスの出発時間はほとんど夜ばかり。そのおかげで僕はHOTELに泊まる必要もなかった。普通ならせっかく見知らぬ街に来たのだからせめて一泊して街を見て回るとか、近くの名所に行くとかするのが本来の旅だろうが、この時の僕はそんな状況になかった。ひたすら乗り物に乗り継いで、とりあえずブラジリアに帰るのが目的だった。ソアレス氏は「金に困ったらブラジル銀行を訪ねて私の名前を出せばイイよ」と言ってくれたが、さすがにそんな気になれなかった。大体この時、もし僕がブラジル銀行に金を借りに行ったとしたら、きっと僕の身なりを見て銀行は、僕の話を聞く前に警察に通報する恐れがあった。そうなるとコトは面倒だ。
クヤバの街のうらぶれたバールに入り、カウンターでピンガを飲みながら石畳を眺めていると、横に女が座った。何気なく振り向くとニコッとやや意味ありげに笑いかけてきた。少女とは言えないが、まだあどけなさを残したけっこう可愛らしい顔をした女の子だった。
ブラジルでは売春が認められている(当時…現在は知らない)。売春宿があり、そこにいる女性は2日に1度の性病検査を義務付けられているという。しかし街に出て売春する女性もけっこういて、料金(?)はそのほうが安く、10コント〜20コントらしい。後家さん旅行の時も日系のバスの運転手に連れられて売春宿に行った事があるが、僕は買わなかった。多分これを読んでいる男性には僕が「格好をつけている」と思われるかもしれないが、実際僕はこの手のことが大の苦手である。未だに性を売ったり買ったりする人の気持ちがわからない。いや、分からないでも無いが、自分は好きになれない。その時も運転手二人に馬鹿にされたが、僕自身は平気だった。(もちろん女が嫌いだと言っているわけではない…)
そ知らぬ顔をして目をそらすと、女はしばらく所在無げに座っていたが、諦めてバールを出て行った。そしてその後姿に、何故か僕は胸が痛んだ。彼女は今夜仕事にあぶれるかも知れない・・・。
見知らぬ街の夜は更け、バスの出発の時間が近づいた。
3月4日
1日中バスの中。取り立てて書くことも無い。バスの乗客と話しながらのんびり過ごす。ポルトガル語が、なんとなくではあるが、分かるようになってきていた。ただ、話しはじめた一人の乗客の一言は覚えている。
「イ ヴォセー ボリビアーノ?(オメェさんはボリビア人かの?)」
ボリビアはスペイン語だからお互い方言程度の言葉の違いだが、少し発音の違う僕のことをこう思ったのだろう。赤道の紫外線を浴びて顔が日焼けしていたし…身なりも旅行者というより乞食に近かったし…少しショックだったが、チョッピリ嬉しくもあった。こういう旅をしてみたかったからだ。ボリビア人に間違えられるなんて、マコト、頑張ったじゃないか!。
思えばブラジルに来てもう5ヶ月になる。いろんな人々と話し、その生活を見てきた。生活習慣とか言葉とか宗教とか肌の色や目の色が違うだけで、人間は皆同じだ。考えることも、その行動も、結局似たようなことをやっている。頭では分かっていることを、現実に体感できたことに意味があるのかもしれない。
バッグの底から、シワクチャの20コント札を見つける!。ヤッタ!…。急に幸せな気持ちになる。明日の夜にはブラジリアだ。道は昨日までとは大違いでバスは快適に走っているから間違いなく着くだろう。ということは、今夜の夕食はシュハースコ(牛肉の炙り焼き)とビールということになる。よしよし…この世の幸せに大小は無い…等と考えながらニコニコして夕方バス停に着くと、バス停付近には陰気な顔をしたオヤジのやっているボロボロのバールが一軒あるきりで、シュハースコどころか、あの例の船の食事を思わせる、くそまずい魚の定食しかなかった。ガッカリ…。
2月5日
ブラジルの食べ物の話をしよう。
ブラジル料理の代表は「フェイジョアーダ」だろう。これは煮込み料理の一種で、豚の鼻、手足、内臓…つまり肉以外の部分をフェイジョンという豆と一緒にコトコト煮込んだ料理だ。もともとその昔、支配階級の人間が食べた豚の残り物で奴隷が作って食べていた料理であるらしいが、旨いとの評判で全国に広がったという。実際僕も何度か食べたが、はっきり言って最初の頃は旨いとは思わなかった。しかし何度も食べているうちに、やはりこれはブラジルの味なのだと感じるようになってきた。中身をフォークで突き刺して取り出してみると、豚の蹄やら鼻が出現する。僕はけっこうゲテモノ食いなので、平気だが。
牛肉料理はシュハースコが一番旨いが、コレは料理というより焼き方が違うだけ。要は炭火で肉の塊りをグルグル回して焼く…炙り焼きのことで、ちょっと大きなレストランに行くと、目の前で焼けたところをナイフで切り取って皿に盛ってくれる。そして残りの塊りを再び火に掛けて炙る。コレが旨くないはずが無い。炙り方はいろいろあって、レストランの工夫もある。大きなレンガの箱の中で電熱線を利用して焼いているところもあった。だいたい一塊が10Kgから20Kgの代物である。当時の日本はまだまだ牛肉の値段が高く、僕にとってももう牛肉の塊りと聞くだけで…それだけで口に唾が湧いたものだ。ブラジルの牛肉の値段は当時の日本の10分の1だった。
主食は米だ。ポルトガル語でフォシュフォロスという長たらしい言葉だが、フォーシュと省略語で呼ばれることも多い。たいていは、前にも書いたがフェイジョン豆の煮たものを皿の脇に乗せ、混ぜながら食べる。当時の僕の記憶のなかで、その煮豆はあっさりしていた筈だったが、先般久し振りにブラジル料理を食べた際、その煮豆の中に豚肉が入っているのを発見した。そのせいか非常にクドく感じたのだが、それは単に年齢のせいなのかもしれない。
パンはもちろん食べるが、朝食の時やサンドイッチにして食べる。大きな町ではハンバーガーショップもあった。しかし一日の中で夕食はどこでもたいてい米だった。
なんと言ってもこちらの人は肉でも何でも食べる量が違う。K氏とイグアスで川海老のから揚げを注文したら、40センチほどの皿に大盛りになって出てきて閉口した思い出がある。牛肉にいたっては女性でも500グラムぐらいは平気な人もいる。男で食べる人は1キロぐらい食べる。だから中年になると当然太ってくる。
ブラジリアに着いたのは夜の9時過ぎだった。僕の財布の中身は10コントほどだったが、これはソアレス家までのタクシー代である。ちゃんと残しておいたのだ。お陰で腹ペコだ。
casa50
(カーザ シンクェンタ) ソアレス家の番地だ。家はヒグソル(南の翼)に位置している。タクシーに告げると、ショヘールは頷いて走り始めた。この頃はタクシーに乗ってもボラれることもなくなっていた。余計なことを喋って旅行者だと思われるとまずいので、慣れた感じで所番地を告げ、後は不機嫌そうに口を噤んでいれば良いのだ。
「着いたら電話をしなさい、迎えに行ってあげるから」とソアレス氏は言ってくれていたが、突然帰ってビックリさせてやろうと、タクシーに乗ったのだ。しかし、家に着いた途端、なぜか僕は急に妙な心持ちになっている自分に気がついた。
僕がタクシーを降りたのは道路に面したソアレス家の裏口だった。そこには呼び鈴が取り付けてあったが、僕は、なんとなくそれを押すのを躊躇っていた。家の中には灯がともって、人の話し声も漏れ聞こえていた。…僕は急に恥ずかしくなっていた。いや、この表現は少し違う。あれほど親しくなっていたレイラやマリアアリス。ルイーズにソアレス夫妻。この人たちは僕の帰ってくるのを本当に待っていてくれているのだろうか…。なぜそんな気持ちになったのか、僕には分からない。現実離れしたアマゾンの旅がそんな気持ちを僕に抱かせたのかどうかは知らないが、「ただいま!」とか言って堂々と家に入ってゆく勇気が急に萎えてしまったような…そんな感覚であった。パウザダでちょっと知り合って、一週間ほど家に滞在しただけなんだ…。僕のことをどれほど知っているのだろう。いや、それよりどう思っているのだろう。僕は今でもこの時の気持ちをハッキリ思い出す。今思えば旅の間中、レイラやソアレス家の人々に対する思いが強かった分だけ、現実に家に着いた時に妙な気後れがしてしまったのだろうと思う。後にも先にもこのような不安な思いをした経験は無い。
5分だったかもしれないし、30分だったかもしれない。僕は裏口でうろうろし、やがて意を決してベルを鳴らした。
ドアが開き、中から顔を出したのはレイラだった。
「Oh!MAKOTO!」
僕を見つけた時のレイラの第一声とその表情は僕の不安に満ちた奇妙な思いを一瞬に払拭してくれた。彼女は嬉しそうに僕の手をとり、家の中に引っ張り込んだ。
「パパィ、マコトが帰ってきたわ!」
レイラの大声に皆が入り口に顔を見せた。ソアレス氏が僕を抱き寄せ、本当に嬉しそうに頬ずりをしてくれた。親しみをこめたブラジル式の挨拶である。
「コン フォーミ?(お腹は減っていない?)」
夫人が僕に聞く。
「ウン ポーコ(少し)」
僕は嘘を言った。
その夜、ソアレス家の明かりが深夜まで灯っていたのはもちろんである。
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