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そのF
10時半に農家を出た我々はまっすぐに伸びる道をぶっ飛ばした。ただしパンクにだけは気を付けた。今度パンクしたら…と思うと恐ろしかった。車が全く通らないので、道の真中を走ることが出来る。原生林と道と二人乗りのバイク。ほかにはな〜んにも無い。もちろん僕には国際免許も無い。
国際免許といえば当然ブラジルでも必要なのだが、面倒くさかったので取っていなかった。以前、11月ごろにサンパウロで知り合ったKという日本人実業家と二人でフォルクスワーゲンでサンパウロからイグアスの滝までぶっ飛ばしたことがあって、その時に交代で運転をした。そしてちょうど僕が運転をしている時に、州境の検問に引っかかったことがある。その時私は日本の免許証を見せ、来週国際免許を申請する予定だと言うと、「次の検問でも同じことを言って通りなさい…」と言われたことがある。だから無免許については心配していなかった。それにここはアマゾン州だ。絶対大丈夫なのだ。
途中休憩の時に、若造に、あの農家で「パトア」のヴィーニョを飲まされた…と言うと、若造が木の実を取って口に運ぶ仕草をし、それをクチャクチャ噛んだ後、ペッと容器に吐き出す振りをした…。つまりあのヴィーニョはパトアを口で噛み、唾と一緒に吐き出して発酵させる飲み物だというのである。
ゲェ〜ッ!
しかしこういうことにかけてはブラジル人は人をオチョくる癖がある。真に受けていると笑われる。若造が言ったことが本当かどうか、いつか確かめなくては…。
少し若造に運転をさせる。しかし若造は女好きな割には臆病者で、怖いのかスピードを出せない。バイクというのはある程度スピードを出さないと安定しないから、特にダートコースではハンドルがふらついてしまう。
「ノン ポージ!(出来ねぇ!)」と若造が弱音を吐いた。舗装道路ならともかく、このでこぼこ道では無理かもしれないと思い、再び僕がハンドルを握る。
突然のスコール。
なにやら霧のようなものが前からやってきたと思ったら、いきなりザンザン降りの雨になった。英語の[Cats
&
Dog]というヤツだ。多分35℃以上はある暑い日だったので、むしろ涼しくて気持ちいい。ヒャッホーと叫びながらぶっ飛ばす。後ろで若造が必死にしがみついている。彼は僕と一緒に船を下りたのを後悔しているかもしれない。
スリップ!・・・降り続く雨によるぬかるみでタイヤを取られる。よく見るとこのあたりの道の土は[黄土]で、粒子が非常に細かい。そこに雨が降ると、いわゆる[グチャグチャ状態]となり、非常に滑りやすい。小さなでこぼこを乗り越えるたびに、右に左に滑りまくる。若造が悲鳴を上げ、ますます僕にしがみついてくる。スピードには関係なく滑るから、メチャクチャに疲れる。意地で頑張った。何の意地かと言えば、日本男児の意地だ。この若造に対して僕は日本人の代表だから、その意地だ。しかし今考えてみれば無謀と勇気は違う。意地の見せ方を見ると、やはり僕も当時は若造と同じ「若造」に違いなかった。ぬかるみは80km続いた。今や若造はウマイタで降りたことを間違いなく後悔している…。
桟橋に着く。もうすっかり雨は上がって、暑い午後の1時だった。ポルトベーリョは対岸に渡って3キロほど向こうにある。ウマイタは左岸、ポルトベーリョは右岸だからハシケで渡らなければならない。橋は無い。そう言えばベレンからここまで橋というものを見たことが無い。アマゾンには橋は架からないのだろう。アマゾンの洪水で流されない橋を造るには基礎を相当深く作らねばならないからと、見た。
5コントほど払って対岸に渡る。川幅はそんなに広くない。向こう岸に着き、走り出したところでエンジンが止まった。…。燃料ゲージを見ると間違いなくガス欠だ。多分さっきのぬかるみ運転で思いのほか燃料を使ったのだと思う。ギァをセカンドとかサードに落として走っていたからに違いない。これは僕のミスだった。もっとゆっくり走ればよかったのだ。
走れない単車は自転車より数倍たちが悪い。もちろんガソリンスタンドは町まで無い。都合よく空荷のトラックが来てくれる…筈は無い。我々は仕方なく単車を押した。おまけに道は平坦ではない。そのまたおまけに道は先ほどの雨でぬかるみ、押しにくいったらない。
「カンサ〜ド!(疲れた〜!)」
私と代わって2、300メートルも行くと、すぐに若造が木陰にへたり込む。・・・情けないヤツだ…。しかし、たしか白人は汗腺があまり発達していないと聞いたことがある。だから汗をかく量も少ない代わりに体温が上がる率も高いらしい。しかもコイツらは上半身は強いが、意外に腰が弱い。やはりここは日本人の出番かもしれない。農耕民族は足腰が強いのだ。
暑い!体感温度は50度だ。バイクを押していると汗が滝のように流れる。何せ昼飯を食っていない。若造め、ポルトベーリョに着いたら昼飯はお前のオゴリだぞ!。ひたすら僕は、黙々と頑張った。3Kmの道のりが果てしなく遠くに感じられた。街が見え始めてから、たどり着くまでが一番辛かったのを覚えている。
やっとガソリンスタンドに着いた。
我々はバイクをスタンドに置いたまま、横のバールに飛び込み、それぞれガラナを3本と、バカッチジュースを渇ききった喉に一気に流し込んだ。。こんなに美味いと思った飲み物はこの時が最後だ。突然の売上増に店の主人がなにやら若造に話し掛けている。若造がいきさつを笑いながら話しているようだ。いいか、ちゃんと言え…単車はほとんどオレが押したんだぞ…。
写真を撮ると、この少年は「ジネイロ(お金)」と一言…。(この写真はポルトベーリョではありません)
やっと一息ついて、我々はバス停に行った。なんとポルトベーリョからクヤバまで145コントもする。しかも4日もかかるらしい…。切符を買ったら150コントしか残っていない。クヤバからブラジリアも1000Km以上あるから、僕はその間飲まず食わずでバスに乗ってなきゃならないという計算になる。
しかしヘンだなぁ…。僕は思った。ブラジリアからベレンまで2000Km以上あるのに2日しかかかっていない。ポルトベーリョからクヤバは1500Kmである。なぜ4日もかかるんだ?。道が渋滞しているなんて考えられないし、どう考えても信じられなかった。僕は若造に聞いてみた。船でもいろいろな人に聞いたが、2日という人もいるし6日(!)という人もいた。実際どうなのかを再び尋ねたわけだ。
「マイゾメーノス・・・(多分…)」と若造がまたしても手首を振りながら、
「トレス オウ クワトロ ジーアス(3日か4日)」と答えた。何なんだ?。3日か4日という返事は!一体どうなってるんだ、この国は。途中で怪獣でも出てきて逃げ回りながらクヤバに向かうのでない限り、この返事は到底納得できるものではなかった。
わけが分からないまま僕は若造に連れられて日本人がやっているというバールに入った。なるほど、カウンターには眼鏡をかけた40歳ぐらいの温厚そうな日本人が立っている。若造が僕を指差して「日本から来た…」とか何とか言うと、
「ホウ、日本カラ来タデスカ…」と笑いながら僕に少しヘンな日本語で話し掛けた。
日系2世はこちらで生まれた人だから、ポルトガル語はもちろん喋ることができるが、日本語となるとまちまちである。自分の親が、家で日本語しか話さなかった家庭の子はけっこう日本語が話せるようになるし、夫婦間は日本語で喋っても(周囲の環境を考えて)子供とはポルトガル語で喋っていた家庭の子はあまり話せない。しかし大方の二世は日本語を聞くことは出来、片言で喋る…というパターンが多い。そして当然ながら動作や身振り手振りはブラジル人そのままである。
名前は栗山と言った。カンナ(サトウキビ)のジュースをオゴリだから飲んでくれと若造と僕に差し出し、いろいろ話をしてくれた。僕はサンドイッチをパクつきながら、彼が歩んできた道を想像した。栗山氏の家族は最初、普通の移民と同じように農業からスタートした。しかし割り当てられた土地はマットグロッソ州の痩せた土地で、何を作ってもうまくいかなかったらしい。土地を転々としながら、バナナ、コーヒー、サトウキビ・・・いろんなものにチャレンジしたが、そのたびに取引価格の暴落、あるいは農作物の不作に悩まされたと言う。世界的なバナナ、コーヒー豆の価格の暴落は僕の叔父さんに聞いて知ってはいたが、直接に1人の生産者から話を聞くと、改めて胸に染みた。10年程前からここでバールを開き、何とかやってゆけるようになったと言う。
日本からの農業移民は大変な苦労をしてきたのだ。日の出から、日が暮れるまで、みな働きに働いた。一日中鍬を持っているので仕事が終わっても手が広がらず、一本づつ指を伸ばしたと言う。そんな大変な苦労の中で、しかし日本人の作った畑は他の畑よりきれいであり、収量も多かった。そしてそれが日本の農業移民としての誇りでもあったのだ。その努力のおかげで日系人はブラジルに受け入れられ、根を下ろすことができ、信頼も勝ち得ることができた。僕のような旅行者ががブラジルに来て、「ジャポン、ジャポン…」と親しげに肩を叩かれ、最初から受け入れてもらえるのも、彼ら先住の開拓者たちの努力があってこそなのである。
「ジャポネイス エ ムイント ボン!(日本人はいいヤツだ!)。」
若造が親指を上に突き出して、笑いながらどちらにとも無く言った。正直言って嬉しかった。民族と民族を区別するのは仕方の無いことだ。それは差別ではない。それどころか、この世をもっと楽しくさせてくれる一要素なのだ。ブラジルにはそれがある。ブラジルもとってもいい国だ。
栗山氏にお礼を言って、バイクで若造の家に行く。ポルトベーリョの中心街、ホトビヤーリャ(バス発着場)のすぐ近くのアパートだ。日本で言ったら2Kかな?。思ったより小奇麗なアパートであった。今夜バスに乗ればまた何日間かは風呂に入れない。だからバスの発車までの間にシャワーを貸してくれと言ったのだ。ただでさえも暑い日に、バイクを押して大汗を掻いたので、さすがの僕も気持ち悪かった。
若造の実家は郊外にあるらしかった。何故彼がここにいるのか、彼は何をやっているのか、何故バイクを買いにマナウスまで来たのか…。僕はぜんぜん聞かなかったので知らなかった。それにバスの旅の時のように、辞書を片手にポルトガル語で会話をする・・・と言う状況に無かったこともある。また、僕は昔から相手のことを根掘り葉掘り聞くのを好まなかったし、自分が聞かれるのも嫌いだった。今でも、水のような、あるいは風のようなさらりとした付き合いが好きだ。かと言って人と話すのが嫌いなわけでは決してない。むしろ好きなほうだが・・・。
風呂に入って出てくると、若造が僕のTシャツを手に持ち、これを売ってくれないかと言った。そのTシャツは僕がアメリカで10ドルで買った、少し地厚の紺色のシャツであった。当時1ドルは260円。クルゼイロ(コントの正式な名称)に換算すると60コント程のものだ。「いくらでもいいよ…」と僕は言った。本来なら一緒に旅をした記念にやってもいいのだが、経済状態が破局に近い。ブラジリアまでたどり着けるか、それとも餓死するかどうかの瀬戸際である。この際少しでも金が欲しかった。
それにもうひとつ。若造はもちろんバス停で、僕の経済情勢に気が付いていた。気が付いていたからこそ、Tシャツを売ってくれと言ったのだ。僕としてはまさか若造に金を貸してくれとは言えない。それを彼は分かっていて、僕がシャワーを浴びている時に、いい方法を思い付いたのだ。お互いの暗黙の了解が、その場にはあった。
結局40コントでTシャツは若造の物になった。さっそく若造はそれを着たが、僕よりも体格のいい彼が首を通すと、Tシャツはチンチクリンに見えた。多分彼はそれを着ないだろう。壁に飾っておくか弟にやってしまうだろう。悪いとは思ったが、背に腹は代えられない。食事代も今日は全部若造のオゴリだったが、それはなんとも思わなかった。しかしこのTシャツの件は、本当にありがたかった。若造は最初の印象こそ悪かったが、実際、いいヤツだった。彼と一緒のバイクの旅も終わってみればいい思い出になりそうだ。
夜の7時ごろ、バスはポルトベーリョを出発した。僕は若造と別れの握手をしてバスに乗り込んだ。乗り込んですぐに、今日の疲れがどっと出て、僕は欠伸をする間もなく、寝てしまった。
2月1日
朝8時ごろ目が覚めると、バスは道に止まっていた。もう長い間止まっているみたいだ。どうりでぐっすり眠れたわけだ。乗客の一人に聞くと、故障(ケブラ)だと言う。な〜んにも無い所だ。で、どうするのだと聞くと、次のバスを待っているのだと言う。乗客たちはのんびりしたものだ。本を読んだり、世間話をしたり・・・。向こうから人が歩いてきたと思ったら、3Kmほど離れた民家にカフェを貰いに行っていた乗客だった。なんだか乗客の対応がすごく慣れている。
9時を過ぎても何の変化も無い。腹が減ってきた…。誰かがクラッカーとケージョ(チーズ)をバスケットに入れて運んできた。別の誰かが森に分け入って、グヤバという果実とラランジャ(オレンジの一種)を採ってきた。…なんだか持久戦になってきた。皆に配られたクラッカーを齧りながら、ラランジャを飲む。ブラジルではオレンジを食べない。・・・飲むのである。つまり、いちいち皮を剥いて食べるのじゃなくて、まず、ナイフで頭の部分を少し切り落とし、その切り口を口に当て、上を向いて一気に手で搾る。すると果汁が口の中にほとばしるので、それを飲むのである。そして残った皮はポイと道端に捨てる。
11時になって、やっと代替のバスが来た。荷物を運び、来たバスに乗り換える。再び走り出して1時に休憩地点というかバス停に着いた。ハラペコの我々はバス停のレストランでやっとアルモッソ(昼食)にありついた。ビーフステーキとフライポテト、大盛りライス・・・空腹に負けて12コントも使ってしまった。イカン、イカン…。こんなことではブラジリアまでもたない。何日かかるか分からないのだから…。節約節約。
バスに乗り込んで気が付いた。オーバーとマナウスで買った帽子を故障した車に置き忘れてきた!。無駄だと思ったが、一応ショヘール(運転手)に言ってみたが、案の定、両手を広げて「アキラメナサ〜イ」てな顔をされた。
道がひどくなってきた。今までも相当な悪路だったが、だんだんひどくなる。眠っていても時々座席から落ちそうになるくらい、デコボコ道だ。こんな道を走っていれば、そりゃぁ故障もするわなぁ…。もっとゆっくり走って欲しいが、そうすれば到着が遅れる。痛し痒しだ。それにしても乗客の大人しいこと…。
ジャンター(夕食)は、腹が減っていない振りをして、一番安いメニューを選ぶ。ビールは当分の間、ナシだ。
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