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そのE
1月29日
船旅に慣れてきたのだろう、楽しくなってきた。川が極端に狭くなってきたので、さすがにアマゾンもここまでか・・・と思っていたら、また合流して元の広さに戻った。つまり堤防が無いので、川は幾筋もの水路になったり、またそれが集まったりして、一本の川という形状になっていないのだ。
アマゾン川には、その周辺のマット(原生林)も含めて、生命が満ち溢れている。名前が分からない嘴の青い大きな美しい鳥が、ひびの入ったカスタネットのような鳴き声でけたたましく飛び交っている。突如船の右前方を、波をぬって、真っ黒な馬鹿でかい魚が数匹背を出して泳いでゆくのが見える。
「ボット!、ボット!」と見ていた人が歓声をあげる。僕はさっそく辞書をひいた。Bott・・・「イルカ」と出ていた。あぁ、これが有名なアマゾンの川イルカか・・・。淡水に棲む珍しいイルカである。見たぞ、見たぞ・・・。僕はすっかり嬉しくなった。
船員が子供の手をひいて近寄ってきて、写真を撮ってくれと言う。1枚撮ってやったが、よく考えればフイルムを渡すわけにはいかない。で、
"Se Voce Compra Film、Eu vou tirar foto de Voce、ta?"と言ってやった。私としては「フイルムを買ってよ。そのフィルムで写してやるから」と言ったつもりだったが、船員はニコニコ笑いながら、そのまま立ち去った。通じなかったのかなぁ・・・。おまけにあとで現像してみると、写真は写ってなかった。
写真と言えば、当時の僕はほとんど写真を撮らなかった。ブラジルに半年もいて、36枚撮りのフィルム2本撮っただけだ。じつはこの頃の僕は突っ張っていた。何に突っ張っていたのかと言うと、「日本人旅行者」という一般的な概念に対して突っ張っていた。今もそうだろうけど、当時から「日本人の旅行者は必ずカメラを首からぶら下げ、写真を撮って歩く・・・」と世界中で言われていた。僕にとってそういう言われ方というのは、雰囲気的にあまり良い感じを受けなかった。だから僕はブラジルに来る以前から皆にこう言っていた。
「旅行先で写真ばかり撮ってるヤツは、記憶が脳裏に焼きつかない。その時見た風景は記憶の中に焼き付けるべきである・・・。」と。
しかし今になって古い写真を見ていると、当時のあらゆることが思い出されて、とても懐かしい。僕は馬鹿だった。ハッキリ言って、
写真もっと撮っておけばよかった〜!
フィルムはもう残りわずかだった。レイラの写真を撮り過ぎたのだ。
今日はメチャクチャに暑い日だった。行く手に鮮明で美しい虹が見えたと思ったら、とたんに嵐のようなスコールに見舞われた。不思議である。太陽はさんさんと照って暑いのに、ザンザンぶりの雨が降っている。日本で言う「狐の嫁入り」とかの範疇には無い降りかたで・・・。そして夕立の後は非常に美しい夕焼け。こんな夕焼けも久しぶりだ。大自然の夕焼け・・・あぁ、写真に撮っておけばよかった・・・。
夕食の時、明日ウマイタに着くよ、と若造が僕に言った。そしてそこからポルトベーリョまでバスで4時間の距離だから、ウマイタで降りて二人で単車でポルトベーリョまでいかないか?と持ちかけてきた。なかなか面白い提案であった。しかし僕はやっと船旅のほうも面白くなってきた時だったので、ちょっと考えさせてくれ、と答えた。船賃の払い戻しはあるのかと聞くと、「無い」と即座に答える。それならやっぱり船のほうが面白いかな?・・・などとこの時は考えていた。
実はこの時僕の財布には金があまり残っていなかった。ポルトベーリョからクヤバを経てブラジリアまで行くバス代さえも怪しかった。バス代を聞いても誰も知らなかったから、計算のしようが無いのだが、この時僕の財布には300コント(15000円弱)ぐらいしかなかった。この船はビールが安かったのでついチョコチョコと買って飲んでいたのだ。少し節約しなくては・・・。
この日は夜も暖かかった。屋根なしデッキの上で、安楽椅子に腰かけて、星を見ながら眠ってしまった。夜中の2時に目が覚めて、僕は寝心地のあまり変わらない長椅子ベッドに戻った。ベッドは僕の専用だから、誰も、座ろうともしない。敷いてある救命胴衣もこの船では片付けなかった。みな川原の乞食に憐憫の情を抱いていたに違いない。考えたら船についていないのでシャワーも浴びていない。もちろん同じ服を着っぱなし。1枚だけ若造が撮った僕の写真が手元にあるが、恥ずかしくて載せられない。
1月30日
ウマイタ岸辺の家。この家は壁があるだけまだマシだった。
昼に、やはりウマイタで降りることになった。払い戻しがあると聞いたからである。若造め、いい加減なこと言いやがって・・・。20コントの払い戻しだったが、今となっては貴重である。港に着くと、バールにバクリーのジュースが置いてあった。2コント支払って、飲む。ここで飲んでおかないともう飲めない可能性がある。爽やかな甘さの記憶だけが残っているが、それ以外にどんな味だったかは忘れてしまった。
若造の単車が降ろされた。赤いYAMAHAの125ccだったが、何とか二人で乗れそうであった。若造は嬉しそうにハシャいでいる。エンジンをかけてみろと言うと、必死にキックしているが、かからない。見るとメインスイッチが入っていない。どうやらコイツは本当に触ったこともないらしい。それではと、先生がキックしてやると、一発でかかった。若造がホッとしている。燃料ゲージはほとんどエンプティ-だったのでガソリンを入れなくてはならない。荷物を縛り付け、僕が運転をし、若造が後ろで僕にしがみつく格好で発進した。
ウマイタは思ったより「町」であった。ガソリンスタンドに行って給油し、店員に道を聞いて出発した。出発して何キロも行かないうちに、すぐに町並みは途切れ、うっそうたる原始林の中に入る。そこに一本の茶色い道だけが伸びている。もちろん舗装なんぞされていない。そのうちT字路に突き当たった。若造が少し考えて、右だと言うので右に折れ、あとはひたすら突っ走った。
30Kmほど来た所で若造が僕の肩を叩く。バイクを停めると、「引き返せ。」と言う。今さっき通り過ぎた看板まで戻り、よく見ると、我々はなんとマナウスに向かって走っているではないか!。僕は若造に日本語で悪態をついた。いきなり間違えやがって・・・。お前の地元だろうが・・・。馬鹿!
仕方なくまた分かれ道まで戻り、そこから再び60Km来たところで、なんと今度は前輪がパンク!。どうするんだ、おい!車なんぞ1台も走っていない。なんてこった・・・。
若造がポルトベーリョ行きのバスがあるからそれに乗ろう、と言う。2時間ほど待っていたが、夕刻になってもバスどころか車1台通らない。それまでだって車にすれ違ったことが無かったのだ。仕方なく道を歩いてゆくと、道端の原生林の中に、民家があった。民家と言っても柱が4本だけ立って屋根がついているだけの掘っ立て小屋である。少し高床式になっていて、大人4人ぐらいは寝ることが出来る大きな手作りベッドが真中にドカンと据えられている。そのベッドの上には赤ちゃんが1人寝かされ、その横で2〜5歳くらいの子供が3人腰掛けて遊んでいる。なにせ壁が無いから外から丸見えだ。母親らしき女性が隣の炊事場で夕食の支度をしていた。
若造がバスの時刻を尋ねると、ポルトベーリョ行きのバスは朝1本あるきりで、もうすぐウマイタ行きのバスが来るということだった。こうなってはもう道はひとつ。僕はバイクのタイヤを外し、バスで運んでウマイタまで戻ってそれを修理に出し、明日の朝の便でここに戻って来るしかないと若造に言った。幸い前輪だから外しやすい。僕はさっそくタイヤを外しにかかった。そして母親にバイクを預かってもらい、外したタイヤを持って、10人ほどの乗客がが訝しげに注目する中、やってきたバスに積み込んだ。もちろんこのあたりのバスは道端で手を振れば、どこからでも乗車できる。
結局またウマイタに戻ってきた。すぐに修理工場を探し、タイヤを今夜中に修理しておいてくれと頼み、我々は近くのホテルに泊まることになった。個室だが、狭くて汚らしいホテルであった。しかし船の上と比べたら超高級ホテルと言うものだ。第一、布団がある。これは本当にスゴイことだ。
久し振りのシャワーを浴びる。そのあと若造と飯を食いに町に出て、シュハ-スコ(牛肉の炙り焼き)を食う。美味かった。金は若造が払ってくれたのでいくらだったか忘れた。しかしこれくらい若造が払うのは当然である。運転のみならず、タイヤの外し方まで教えてやったのだから・・・。
帰ってきてみると、ベッドの上から丸い蚊帳が吊り下げてあった。それはいいのだが、その蚊帳のあちこちに握りこぶし大の穴が開いている。何のための蚊帳だ?。それでも旅の疲れで、あっという間に、寝た。
1月31日
バスは朝7時発だったので、我々は6時には起き、カフェを飲んですぐに昨夜頼んでおいた修理屋に行った。店はまだ閉まっていたが、扉をどんどん叩くとオヤジが中から出てきた。タイヤはどこかと聞くと、なんと間の抜けた声で
「アインダ ノン!(まだやってネェべよ!)」とほざきやがった!。
昨夜あれほど頼んだのに・・・。やれないならやれないと言えよ!オイッ!
修理屋はここしかないのだから、ここでやってもらうしかない。仕方なく我々は修理が終わるまでここで待ち、そのあとタクシーであの農家にタイヤを運ぶことにした。その時ふと思いついて僕は若造に、自分はバスに乗って先にあの農家で待っていると言った。僕はあの原生林の中の農家に興味を持っていた。一体どんな生活をしているのだろう。二人してここで待っているより、その間僕はその農家のあたりを散歩したかったのである。
僕は若造を修理屋に置き去りにして、一足先に、やってきたバスに乗り込んだ。そしてバスに乗り込んでしばらくしてから、別れ際に若造が見せた少し不安そうな表情の意味に気が付いた。彼にしてみればひょっとして僕がこのままポルトベーリョまで行ってしまうのではないかと思ったのだろう。そう気が付いて僕は若造に悪いことをしたと思った。もし僕がそんな行動をとったら、彼は一人でタイヤをバイクに取り付けねばならない。そう思えば不安にもなるだろう。しかしそれは彼が農家に来てみれば分かることだから、ま、いいか・・・。
バスを降り、農家に着いた。バイクにはビニールの布がかけてあった。母親が僕を見つけ、人懐っこい笑顔を見せた。
「ボン ジア!(おはよう!)」
事情を説明し、このあたりを見ていいかと聞くと、母親は赤ちゃんをおぶったまま、近辺を案内してくれた。子供もぞろぞろついて来た。ろくに言葉が喋れない人間をこの時多分初めて見たのだろう。物珍しげに、あるいは不思議そうに、笑いながらついてくる。
背が高く、太さが子供の腕ほどもあるカンナ(サトウキビ)の畑に行き、鉈でそれを切り倒し、皮をザカザカ削り落とすと、彼女は僕に齧ってみろと差し出す。皮が剥かれたサトウキビはもうそこから樹液を滴らせている。がぶりと食らいつくと、甘い水が口一杯に広がる。初めての体験だった。
「ムイント ボン!(とても美味い)。」と言うと母親は嬉しそうに笑ってこちらに来いと手招きをした。
小さな納屋の中に案内され、隅っこを見ると、60センチくらいの大きさの甕が3つばかり並んでいた。
「ケケ イッソ?(これは何?)。」と聞くと
「ヴィーニョ」と答える。葡萄酒のことだ。
しかし匂いも見た目も葡萄酒とは程遠い。どういう葡萄酒かと聞くと、「パトア」と答える。どうやらパトアという木の実が原料のようだ。柄杓でそれを汲んで、飲めと言う。なんとなく飲みたくないなぁ〜という本能的な不安があったが、仕方なく飲んだ。・・・やはり不味い・・・。酸っぱい上になにやら妙なツブツブが口に残り、はっきり言って気持ち悪い。こういうことははっきり言うたちなので、
「ノン ゴストース・・・(美味しくない・・・)。」と顔をしかめると、彼女は笑い出した。子供たちも笑っている。きっと僕がそう言うのを期待して飲ませたのだろう。人の悪い・・・。
木にぶら下がっているバナナを口直しにほおばる。木で完熟したバナナはとても美味しい。近づくだけで甘い香りが鼻を擽る。2本食べた。
家に戻り、僕がカバンを開けて、お礼に何かあげるものはないかなぁ、と探していると、横に座った5歳ぐらいの男の子が、蚊取り線香の箱を見つけた。例のニワトリかなんかの絵が書かれた「キンチョー蚊取り線香」である。アマゾンにはデカイ蚊がいると聞いていたのでわざわざ日本から一箱持って来たのである(バカバカしい・・・)。しかし実際はほとんど使わなかったのだ。
「テン モスキート アキー?(蚊はいるの?)。」と聞くと、たくさんいるという。よし、これを置いていこう・・・。そして渦巻きを取り外し、実際火をつけて煙をたたせ、使い方を教えた。これをつけると、蚊がいなくなるのだと説明し、一箱全部子供に手渡した。そのあとすぐに、(この壁の無い家で効果があるのだろうか・・・)との思いがよぎったが、今更引っ込めるわけにもいかない。ま、いいか・・・。
9時半ごろ、若造がタイヤを手で抱えてやって来た。僕を見つけると本当に嬉しそうに手を振った。奴がわずかにせよ僕を疑っていたことが、その表情から読み取れた。日本男児を疑うんじゃない!
タイヤを付け、母親に礼を言って、「チャオ!」という子供たちの声に送られて、我々は再び出発した。
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