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そのD
船の屋根なし(ついでに手すりもない)デッキの上。手前の男が「若造」である。
1月27日
昨夜はそんなに寒くなかったのでぐっすり眠れた。ビールも飲んだし。手帳のカレンダーを見ると今日は日曜日だが、曜日なんて関係ない。川は突如狭くなったりまた広くなったりしながらゆったりと流れている。さすがに日が差すと暑い。太陽は眩しすぎて正視できない。非常に気分の良い日だ。日陰に入るとさわやかな風が全身を吹き抜け、心地良い。本当に日本では今ごろ真夜中なのかな?。
昨日もどこかの港(と言ってもホンの小さな桟橋があるだけの)に少し停泊したが、今日も
Novo Aripuana
という港に11時に着いた。ここでまた荷物が運び込まれ、荷物が降ろされる。人々も少しづつ入れ替わる。この船がこの川沿いに住む人々の生活船だということが分かる。色の黒い、目鼻立ちのハッキリした女性が笑って僕に手を振った。ここで降りるらしい。荷物を背中に一杯背負っている。若造がちょっかいを出していた娘だ。
出航してすぐにアルモッソ・・・昼食。
昨日の夜も食事も、なんと昼と同じモノであった。つまりあのバカデカ魚とアブラメシ・・・。僕は絶望していた。誰か文句を言ってもよさそうだと思うのだが、誰も何も言わない。あの魚はきっとメチャクチャ網に掛かったに違いない。だからアマゾン中がみんなこれを食べているのだ。きっとそういう法律があるのだろう。ガイゼル大統領令かもしれない。・・・そうとも思わなければやっていけなかった。ところが、下に下りた時、僕はわが目を疑った。
なんと食堂のテーブルにはスパゲティー、コーンビーフ、それになんと目玉焼き(!)まで皿に盛られているではないか。今までの泣きたくなるような茶色っぽい食事とはうって変わって、カラフルで食欲を誘う豪華版であった。そうだろう、そうだろう・・・あれだけ食べれば魚はなくなるって・・・。それで仕方なくコーンビーフやらスパゲティーを出したんだ。目玉焼きはさっき泊まった港の人の差し入れかもしれないな・・・。とにかく僕は嬉しくなって、残さず平らげた。特にコーンビーフは旨かった。ブラジルは牛肉が安いのだからもっと出せばいいのだ。ついでに言うと肉の価格は鶏肉が一番高い。豚肉はその中間である。だからこちらの人は鶏のから揚げなんか骨までしゃぶり尽くすようにして食うのだ。結局希少なもの(高いもの)だと思う気持ちがそうさせるのだろうが、人間心理とは面白いものである。
ともかく大統領令は解除されたらしいと言うことで、僕はますます気分が良くなった。デッキにはひとつだけテーブルが置いてあり、そこでトランプが始まった。若造も加わって4人でやっている。後ろで見ていると9枚配って3枚ずつ3組に仕上げるマージャンを極度に簡単にしたゲームだ。見ていると若造は調子悪そうだ。なかなか手が揃わない。
「代わろうか?」と若造が言ったが一回に5コントずつ賭けなければならないのでやめた。ビールを飲んでいたほうが良い。それに昔から賭け事には勝ったためしがないのだ。
ハンモックの船員が僕を見つけるたびに
「ジャポン!、ジャポン!」と人懐っこい笑顔で話し掛ける。
「コーモ ブラジル(なんだいブラジル人)」と言ってやると笑って親指を上に突き出す。ラテン民族は仕草が独特で、握りこぶしのまま親指を上に突き出すのは『良い』という意味。反対に下に突き出せば『悪い』という意味である。アメリカや日本でよくやる親指と人差し指で丸を作る・・・「OK」という仕草はここではやらないほうがいい。ここブラジルでは『尻の穴』という意味で、きわめて下品な表現となる。
船が小さな集落を通り過ぎたと思ったら、なにやら積んでいる小さな船がこちらに向かってやってきた。なんだろうと思って見ていると、船をこちらの横腹につけ、何か乗員と話している。どうやら魚を売ろうとしているようだ。
よく見るとその魚は我々の船で食事に出された、あの魚ではないか・・・。
(買うな、買うんじゃない!)僕は心の中で叫んだ。買えばまたあの食事に逆戻りだ。コンビーフの缶はまだ一杯あるだろう・・・買うな!。しかし魚はふた切れとも船に乗せられた。もう今夜の食事は決まってしまったようなものだ。僕はがっかりした。小船は金を受け取るとすぐに船を離れ、村に帰っていった。
1月28日
朝、目が覚めると、船は小さな港に停泊していた。なんでも昨夜1時ごろに着いたらしい。1時間ほど街を散歩する。まことにもってのんびりした風景である。マナウスでも『のんびり』と書いたが、もっともっとのんびりしている。岸辺近くで子供たちが裸で泳いでいる。アマゾンには例の『ピラニア』という魚がいて、誰も川では泳がないと思っていたが、どこでもけっこう泳いでいる。聞くところによると、『血』の匂いがなければ大丈夫らしい。彼らは血の匂いをかぐと突然凶暴になるらしく、したがって生理中の女性は絶対泳がないのだそうである。
この街は「マニケラ」といって、街といっても港付近にぱらぱらバールとか店がある程度。しかし今まで寄った所よりはマチなのである。バールに入って「アサイー」はないのかと聞くと、ないらしい。どうやら季節が違うらしい。ガラナを飲むと、これがマナウスの倍の2コントもする。考えてみればこれらの商品はみなマナウスから船で運んでくるのだから、少々高くつくのは当たり前かもしれない。
港に戻ると、ハンモックの船員が僕を見つけて、
「ジャポン、(僕の)荷物を降ろしてくれ」と言う。
何のことはない、この船はこれからマナウスに帰るらしい。つまりポルトベーリョから来る船を待っているのだ。ここマニケラは乗り継ぎの中継地点というわけだ。そんなことはぜんぜん知らなかった。
いきなり集中豪雨となった。雨というより滝を落ちる水だ。道が川となり、泥水がアマゾン川に流れ込む。アマゾンの水が茶色なのはこのせいだ。町中が水浸しだ。しかし1時間ほどでまたカラリと晴れる。
午後の1時になってやっと代わりの船がやってきた。外見はほとんど同じである。と言うことは僕の布団はまたまた救命胴衣とビニールの布と言うことだ。ひょっとしたら間違って寝室付のクルーザーでも来ないかと期待していたが、まぁ、そんなもの来るわけがない。中の作りまで一緒だった。同じ人が作ったに違いない。ここでも大量の荷物と、多くの人が入れ替わった。結局マナウスからポルトベーリョまで行く人は、「若造」も含めて7人ぐらいらしい。
2時に出航。デッキで長椅子を探し、救命胴衣を並べていると、船員がなにやら言ってきた。多分「勝手にそんなことをされても困る・・・」ぐらいのことを言ったのであろうが、横にいた「若造」がなにやら流暢なポルトガル語(当たり前)で説明してくれた。船員は、いや、ひょっとしたら船長かもしれないが、おどけたようなそぶりを見せて、持ち場に戻った。
「オブリガード(有難う)。」
僕は若造に礼を言った。ニコニコして彼は
「ナーダ(気にするな)」と言って手を振った。
彼としても「オートバイの先生」に風をひかれたら困るのである。
ポルトベーリョにはキンタフェイラ(木曜日)に着くらしい。今日は月曜日だからあと3泊もある。船旅自体は面白いのだが、くそマズイ食事と夜のベッドにだけは閉口していた。当時の日記代わりの手帳にも何度も『ナントカしてくれ〜!』と記されている。
暇に任せて、ポルトベーリョからブラジリアまで何日かかるかを乗り合わせた人に聞いてみたら、3日と言う人も5日と言う人もいる。だいたいにおいてブラジル人はこういうことにかけてはいい加減で、握りこぶしを作り、親指と小指を左右に広げ、少しそれを振りながら・・・
「マイズ オゥ メーノス(多分・・・)。」と言う。
「マイゾメーノス」と聞こえるが、つまり多かれ少なかれ・・・といった意味だ。そして自分が知らないくせに、知ったように言うのも悪い癖だ。この船も初めはポルトベーリョまで4日と聞いていたが、実際は6日かかっているし、そんなことは今まででも数え上げればきりがない。 ま、しかし、急ぐ旅でもないし、4日が6日になったって料金が変わるわけでもないのでよしとしよう。
食事は美味かった。いや、これが普通だろう・・・肉が出たというだけの話だ。ビールを買うとなんと4コントである。なぜ船によって値段が違うのか理解できなかった。この2コントの差は何なんだ?
7時になってもまだ明るい。船はやたら広いところに出た。本当に広い。河口から何千キロも奥に入っているのにこの広さだ。対岸が霞んで見える。もちろん堤防なんてものは無いから、川は自由に流れている。途中狭くなったり、幾筋もの水路に分かれたり、こんな風に湖みたいに広くなったりして、勝手気ままに流れている。こんな風に何千年、いや何万年と流れてきたのだろう。そこに浮かぶ船の何たる小さいこと・・・。そこに乗っている自分のさらに小さいこと・・・。この悠久の時間と大自然の中でこそ、人間のちっぽけさがやっと理解できる。 だからその人間が感ずる悩みなんて、もっともっとちっぽけなものさ!
星が出てきた。僕はデッキで長椅子に身を横たえ、煙草に火をつける。
日本にいた頃、僕は大学生活に絶望していた。2浪もして入った大学だったが、もともと怠惰な人間であったので、毎日マージャンやら歌やら女の子やらアルバイト・・・軟派学生の代表選手だった。おまけに学校は学園紛争の真っ只中で、授業もろくに出ず、期末試験はほとんど行われずに論文提出だけで最低限「可」はもらえた。僕は2年で飽きてしまった。一体何をしに入ったんだろう・・・。学生集会にも顔を出したが、核マルの言うことも、社青同の言うことも、民生の言うことも空しいと感じた。大体集団で何かをやること自体、僕は嫌いだった。学園紛争に身を投じるより、ヒッピーのほうがまだマシだと考えていたくらいだ。
気取った言い方を許してもらえるなら、僕は「何か」を求めていた。それが何かは分からないのだけれど、とにかく自分で「何か」を感じたかった。それは生きるという実感かもしれなかったし、目標とか夢かもしれなかった。
休学を決意する前に、Nという大学の同級生と、高田馬場から品川の竹芝桟橋まで歩いていって(実際この頃は良く歩いた。)、夜中に出る船に乗って伊豆大島まで行った。途中パンと魚肉ソーセージを買い込み、港に朝5時に着いてすぐに三原山に登った。立ち入り禁止の噴火口を腹ばいになって覗き込んでいると、向こうのほうから拡声器の声が聞こえた。
「オーイ、じっとしていなさい・・・早まってはいけません、オーイ」
後で聞くと我々は自殺者に間違われたみたいだ。少しお小言をもらって山を降り、島の反対側に出た。そして「行者窟」という立て札のある海岸に行ってみた。真っ青な海に、荒々しい岩が点在し、我々はその岩の上でしばし海を眺めた。そして何故か分からないが、その果てしなく広がる青い海を見た瞬間、そこで突如僕の心の中に「決意」が生まれたのだ。
よし、休学してブラジルへ行こう。
翌日僕は大学に休学届を出した。そのあとで親に言ったら猛反対をされた。2浪していた僕は休学すると卒業がまた1年遅れ、就職に差し支えるというのが主たる理由であった。僕は無視した。そして当時高校時代の友人がアルバイトをしていた会社に訳を話し、半年間の就職を頼んだ。月10万円で僕は半年働いて、全額貯金した。親は反対したが、休学が決まると仕送りを続けてくれたのだ。当時はブラジルまで直行便が無かったし、アメリカに住む友人にも会いたかったので、サンフランシスコ経由にしたら航空運賃は片道50万円もした。叔父さんもいることだし、ナントカなるだろうと僕は片道切符を手に握り締めて、ブラジルにやってきたのである。
船はゴロゴロ音を立てながら夜の川を遡ってゆく。 星がきれいだ。 僕はなんにも考えなくて良かった。 あの頃、僕は一体何に、そして何を悩んでいたのだろう・・・。 何のために自分は、人は、生きるのだろう・・・なんて考えても無意味なことだ。 いろんなことに出会いながら、僕はズーっとここにいるじゃないか。これからもこの船のように、どんどん進んで行けばいいんだ。そして臨機応変にやっていけばいい。 その時自分が一番いいと思うことを、思ったとおりやっていけばいいのだ。それ以上のことは、無い。 アマゾン川は僕をこんな気持ちにさせてくれた。 レイラにも会えたし・・・。 彼女のことを思うと心に明かりが灯った。 漆黒の空に満天の星・・・僕は心地良かった。
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