魔性の渓谷に遊ぶ (5-19)
我々は思い出を作りながら生きている。多くの美しく、楽しい思い出を作り続けていくのが人生だ。そこに思い至れば、今この時こそが大切な時間なのだということが分かる。思い出とは、「今、現在」に他ならない。そう、私たちは今、思い出の中にいるのだ。・・・o_kirakuを載せた一風の車の後をついて走りながら、私はこんなことを考えていた。
朝5時の冷気は目覚めた者をシャンとさせてくれる。緑がことのほか美しい。昨夜までの雨で植物としての生気を蓄えた木々の新芽が稜々と萌える。しばらく行くと、広大な雪渓が現れた。車を止め、しばし見とれてあたりをうろつきまわる。
雪の上の茶色いゴミは、木枝の屑である。あたり一面に積もった雪が溶けるにつれて徐々に谷に集まってくるようだ。考えてみれば、これは大自然の掃除である。雨だけではこうはいかない。質量をもった雪だからこんな芸当が出来るのだ。この雪はまた雪融け水となって谷を潤し海に注ぐ。この雪融け水が海の稚鮎の遡上のきっかけとなるのは良く知られていることだ。自然の大循環・・・これを知らねば、人類は本来生きていけないはずなのだが・・・。
昨日の朝、一風の母親に会った。大変元気な72歳で、まさにこの母親にしてこの一風ありという人物だ。飛騨高山の朝市で一人あちこちうろつき回り、迷子になって叱られたことがあったと笑って話す。山野を駆け巡る一風そのものではないか。この一年で彼とは4回遊んだが、いつもモチベーションの高い野人である。
その後雨の中を「ヒメサユリ見学」としゃれ込んだ。この名前の響きが良い。可憐清楚なあの「吉永さゆり」を髣髴とさせる名ではないか。雨の雫を滴らせた仄かでかつ艶やかな花色が素晴らしい。
その後十日町経由で秋山郷まで向かい、切明温泉の近くで野営した。私にとってまったく久し振りの体験であった。魚釣りで夜中に出発して目的地に暗いうちに到着し、明け方まで寝る・・・ということは昔良くやったが、最近そんなこともやらなくなった。 だから寝袋ももテントも持っていない。
しかし現地の夜を楽しみ、かつ、人より先にいち早く行動を起こすにはこの手段が一番適していることに異論は無い。
あいにくの雨模様で、車を並べて雨を凌ぐ。一風がいつも持ち歩いている一斗缶と樫の木の薪で火を起こし、とりあえずでかい鍋に湯を沸かし、とりあえず採ってきた山菜やキノコを入れ、とりあえず味噌を入れて味を調え・・・ようとしたが、なかなか味が調わない(笑)。最初に入れた水の量が多すぎたのが第一原因である。味噌が足りなくなり、塩を入れたりしてみたが、どうにも味が調わない。そのうち材料が勝手に煮えてきてしまい、えい、ままよと食い始める。前日に私が妙高で採ってきたタラノメやらウドのテンプラも、カセットコンロで揚げたにもかかわらず、雨の湿気を吸ったのかベトベトして上手く揚がらなかった。一番旨かったのがコンビニで買ってきた握り飯であったのは・・・かなり寂しい(笑)。言っておくが、一風も私も料理の天才である。しかるにこの日は、どう考えても秋山郷鳥兜山の霊気が才を鈍らせたとしか言いようが無い体たらくであった。
焚き火を囲んで話をしているうち、ふと気がつくとo_kirakuがそわそわ落ち着きが無い。時々「寒い・・・寒い」などと呟きながら、体の前と後ろを交互に暖めながら、口にこそ出さないが「早く温泉行こうぜ〜」と全身で叫んでいる。一風が「じゃ、川原の温泉に行きますか」と言いながら腰を上げるや、電池の切れ掛かっていたokirakuの顔に喜色と生気が蘇った。彼にしてみればまずい夕食のあとの「最大の楽しみ」は温泉に漬かることだけだったのだろう。
温泉と言っても、渓流の川原に自噴していて、浴槽など無い、まったくの天然自然温泉だ。転がっている石で堰を作り、川底を掘って自分で浴槽を作る・・・コレが実際はかなり難しい。というのも出ている温泉が熱泉で、そのままでは熱くて入れないので渓流の水を引き込んで薄めるのだが、この加減が難しい。結局3人で足をバタバタやりながら、かき混ぜながら入ったのだが、こんな温泉ははじめてであった。ま、たまにはいいか。
秋山郷を朝の5時に出立し、、我々は一風お勧めの渓谷に到着した。昨年のナメコ探しの時にも一度訪れているが、その時は入り口辺りを探りさ迷っただけである。今日はこの魔性の渓谷を制覇するのである。魔性の渓谷とは「魔性の山菜」が無数に自生しているという意味の一風語である。命名に深い意味は無いが、事実の持つ意味は深い。何千年、何万年もの時間が培ったこの自然を、我々人間はいとも無造作に、そして短時間に、自分に都合の良いように改修した。しかしそれはあくまでも自分勝手な目先の都合であって、自然の大循環を無視した無知無謀の仕業であったことに気が付かねばならない。ましてやそれが国家予算を使うための算段であったりするのなら、無知無謀どころか悪魔の仕業としか言いようが無い。
雪融けの渓谷には花が咲きはじめていた。リュウキンカは深山に咲く目を引きやすい黄色い花だが群生することが多いため、このようにポツポツと咲いていると「あれ?この花は?」と自問したりすることもある。花の写真を撮りながら、名前などを考えながら名渓を彷徨するのはこの世でも最高に近い幸せである。それにしても名渓谷である。渓相、つまり顔が良い。浅くもなく深くも無い穏やかな流れの中に幾万年もの時間をかけて水流に洗われて丸みを帯びた岩盤が堰を作り、川床を作っている。周囲はブナ、ミズナラ、クルミ、トチ・・・本来そこにあるべき木々の林に覆われてたおやかな風景を醸している。昨日までと違ってさんさんと降り注ぐ太陽。木漏れ日に煌くゼンマイの若芽。我々はそれぞれに至福の散歩を楽しんだ。
シラネアオイである。私にとってはヒメサユリ同様初めて見た花だ。初めてってことは素晴らしいことなのだと、最近になって思う。半世紀も生きていると、初体験自体が減ってくる。それは新しい感動が減るということに他ならない。だから私は行動を起こすのだ。イワガキやマイタケを探そうと決意したのも、この新しい感動を得るための行動なのだ。生きると言うことは、大袈裟にではなく、この「感動」を得ることそのものなのである。
「カフェとピンガ・・・」でも書いたが、写真というのはやはり撮っておくべきだ。こんな写真もたまには悪くない。この滝は「一風の滝」と命名した。岩盤で出来た滝で、岩の柔らかい部分が水に侵食され、ところどころに大きな深い穴があいている。「立てないくらい深いやつもあるんだよ」と一風が言うので覗きこむと、確かに真っ青で底が見えないくらいのやつがある。水、恐るべし!
最後に、ギョウジャニンニクの群落に行き着いた。こんな群生は勿論初めてだ。全体に小ぶりではあるがそれはこの広大な群生の反比例かもしれない。渓谷の横の土手や尾根にまで群がるように生えている。足で踏んづけてしまうたびに、かすかなニンニク臭が漂う。okirakuが夢中になってあちこちを駆けずり回っている。私にしても去年までは夢に見ていた「魔性の山菜」である。この旅の締めくくりの風景としてはこれ以上のものは無いのである。