HISTRY
私の釣歴
追憶 @ イタセンパラ
小学校の頃、叔父さんに連れられて、近くの川で初めて釣りをした。 岐阜市の北に住んでいた頃で、少し北に歩くと鳥羽川という川が流れていた。そこで釣ったイタセンパラが私の初釣果である。竹の延べ竿が曲がり、川底からきらきらと煌めきながら身をくねらすイタセンパラの虹色が今でも目に焼きついている。初めての生体反応に私はなにやら叫んでいたらしく、あとで叔父さんから「あんなチッチャな魚で騒いで・・・」と笑われたことも覚えている。そのイタセンパラがしばらくして川から姿を消し、希少種となり今や天然記念物となった。イタセンパラだけでなく、当時はナマズ、ヤツメウナギ、オイカワなどがいくらでも捕れたし釣れた。釣りだけではなく、「カイドリ」と言って、堤防の石組みを仕切り、その中の水をくみ出すと、中からウナギや小魚がニョロニョロぴちぴち流れ出てきて、簡単に捕れたのだ。魚だけでなく、蜆や大きなカラス貝なども、川底を掘ると出てきた。川でなくても田んぼの用水に、大きなナマズやフナが泳いでいたしタニシも一杯いた。
こんな環境の中で、我々子供たちはまったく退屈ということを知らなかった。水の干上がった水溜りで、小さなフナをバケツ一杯捕ったり、ザリガニを蛙の肉で釣り上げたり、やることは一杯あった。そしてそれが自然と戯れるということなのだと分かり、そんな体験がすごく貴重なものであったと知ったのは、残念ながら、本当の自然と戯れることが出来なくなってからだった。
これが私の原体験である。そして半世紀を生きてきた今、未だ釣りやアウトドアライフで追い求めているのは・・・この原体験の風景であり、最初に釣ったイタセンパラの生体反応なのだ。
追憶 A ルアー釣り
岐阜市に住んでいた高校のころ、餌を付けないで釣れるやり方があると聞いてさっそく釣具屋に買いに行った。ルアーと言ってもミノーではなくスプーンかスピナーだったが、初めての疑似餌釣りである。場所は岐阜市内を流れる長良川であり、釣具屋のオヤジの話では川マスが釣れるはずだったがなぜか腹の赤いウグイばかりが釣れてきた。ツレと一緒に行った池では雷魚が釣れた。しかしどちらも食べて美味しい魚ではなかったせいか、なんとなく興奮することなくこの釣りは終わってしまった。この頃から私は「食べて美味しい魚」を釣りたいと思っていたような気がする。食い意地が張っていたのかもしれない(笑)。
追憶 B 投げ釣り
東京に住んでいた学生時代、釣りの本を読んでいてふと投げ釣りがやりたくなった。何かがしたいと思うと矢も盾もたまらなくなり、そのことで頭が一杯になってしまうのは今も昔も同じで、すぐに新宿職安通りにあった上州屋に駆け込んで、なけなしの金をはたいて投げ竿とリール、糸や針を買った。そして次の日に東海道線に乗り、小田原にむかった。小田原の砂利浜で、本に書いてあるとおりの仕掛けと道具で海に向かって思い切り投げる・・・この遠くに投げる時の快感が未だに脳裏にアドレナリンを湧かす(今はジギングをやっている私だが、近くでナブラが立つと必ずキャスティングロッドを取り出して、投げる。投げることが好きなのだ)。この時は18センチほどのキスがゾロゾロと釣れた(投げ釣りのキスはゾロゾロ釣れるのです)。帰りの電車の中で茅ヶ崎の釣具屋のおっさんが声をかけてきて、仕掛けの作り方や考え方をその場で作って見せてくれた。我々二人の会話に横にいたオヤジが口をはさんだり、冗談を言ったり・・・当時の電車の中はなかなか和気藹々としていたのです。
さて、私が本格的に釣りにハマったのは33歳の時の鮎釣りだ。
私が鮎釣りを本格的にはじめたのは1985年だから。そんなに昔からやっているわけではない。
ある時叔父さんに連れてってやろう…と言われ、わけの分からないまま根尾川(岐阜県の揖斐川上流の支流)に連れて行かれ、そこで竿を出したのがきっかけだ。それまではもっぱら鮎は釣るのではなくて、網で獲っていた。
根尾川で3匹釣れた。いや、7匹掛かって4匹逃がして、3匹をモノにした。
私はその日を境に、鮎釣りに夢中になった。すぐにダイワのアモルファスウイスカーという竿を買い、本を読んで「理屈」を学んだ。仕掛けも自分で作り始めた。
次の年に、その頃関西で流行り始めていた「抜き」を練習し、実践で試した。と言うのも、掛かっても掛かっても鮎が取り込めなかったからだ。特に瀬肩で釣ると、モタモタしているうちに鮎は瀬に逃げ込み、糸が切れるか、バレる(外れる)かのどちらかだった。 せっかく掛かったのに逃がしてしまう…。その悔しさは口では言い表わせない。もう、ガックリ…疲れが出るのである。
仕事は適当だが、遊びとなると真剣勝負だ。私の頭の中は鮎釣りで一杯だった。鮎釣りは私の行動の原点となっていた。どうしたら一杯鮎が釣れるか…そればかりを考え、あれこれ本を読み漁り、工夫を凝らした。そのおかげで2年後の'87にはちゃんとした抜きの出来るいっぱしの釣り師になっていた。根尾川で初めて一日50匹釣ったのもこの年だ。
ひょんなことからその年、M氏と知り合う。M氏も相当な遊び人であったから、相乗作用とでも言うのか、周りの人もあきれるくらいのめり込んだ。M氏は当時で釣り歴40年以上のベテランで、しかも新しい釣りに絶えず挑戦する人だったから、お互い切磋琢磨することが出来た。今プロになって活躍している矢作川の山郷氏や足助町のダイワのテスターの小寺氏(スケートのほうが有名かも)などの名手と知り合いになれたのもM氏のおかげである。'88年の釣行記録である。前の年から「鮎釣り日誌」をつけ始めている。
今や伝説の90日で60日釣行の記録
河川名 回数 時間 匹数 平均 匹/時間 豊川下流 13 48 219 16.8 4.6 根尾川 25 106 349 14.0 3.3 矢作川 6 17 70 11.7 4.2 長良川 中央 13 43 123 9.5 2.9 興津側 2 14 37 18.5 2.6 九頭竜川 1 4 18 ― ― 合計 60 231 816 13.6 3.5
「時間あたりの匹数」なんて出しているのは、大会に出る選手たちが当時目標にしていた「時間あたり5匹」というひとつの目安みたいなものがあったためである。
大会は時間を区切って行われるから、いつもそういった感覚で釣りをしていたのだ。しかし釣行を平均して時間あたり5匹なんて数字が夢みたいな数字であることは、やった人なら分かるだろう。
鮎釣りの大会は予選を勝ち抜くのが大変である。何せ100人から150人を相手に、たとえば4時間に何匹釣るのかを競うわけであるから、とにかく掛けなければ話にならない。相当な集中力が要求されるのである。ましてや掛かった鮎をバラしたり逃がしたりするなんぞもってのほか。ドンブリ(糸が切れて2匹とも逃がしてしまうこと)なんてやったらもう致命的なのである。
だからテクニックはもちろん、仕掛でも針の種類とか糸の号数とか、細心の注意を払って作り上げてゆくのである。これで上手くならない筈がない。どんな趣味でも同じだが、どれだけどっぷり浸ってその趣味をやるかでレベルが決まるのは当然の話だ。
当然ここまでくると道具やらなんやらでけっこう金がかかる。趣味を超え、道楽と呼ばれても仕方がないほど金を釣りに注ぎ込む。なにせ鮎釣りの竿は1本20万円前後はする。釣る場所によって竿を変えたり、釣行回数が増えるとヘタったり(反発がなくなること)して毎年のように何本もの竿を買う。本人にしてみれば、もう「金」なんてどうでもいいのである。私の場合は竿はもちろん、鮎用に川を走りやすいジムニーを買ったり、挙句の果てに郡上八幡、吉田川のほとりにログハウスまで建ててしまった。そこで水槽を作り(仲間が皆で手伝いに来てくれたっけ・・・)、釣ってきた鮎を生かし、それを眺めながらビールを飲んで至福の時を過ごしたものだ。
当時大会はいくつかあった。ダイワマスターズ、シマノジャパンカップ、リョウビ、ガマカツ…ほとんどが釣具メーカーの主催する大会だった。私の場合、出た大会の半分くらいは予選を通ったが、優勝は一度もなかった。一番の思い出は'90年のダイワマスターズ長良川予選で150人中25匹を釣ってトップになって雑誌に出たことぐらいだ。
束釣り(100匹)も一度九頭竜川で経験した。山郷氏が束釣ったよ!と言うので、M氏と二人で出かけ、朝の7時から夕方5時まで飲まず食わずで二人とも104匹を釣ったのだ。腹はぺこぺこ、喉はカラカラ…しんどかったが、いい思い出である。
フライも少しかじった。鮎釣りも人が多くなり、それより何より釣れなくなってきた。各河川で水質やら水況が悪くなったことも原因だし、放流鮎も昔は湖産鮎と言えば琵琶湖の川を上った稚鮎のことだったが、需要が多くて生産(捕獲)が追いつかず蓄養鮎となり、今はほとんどが人工孵化だ。だから鮎釣りがだんだん面白くなくなってきたのである。10年ほど夢中になった鮎釣りだがだんだんと飽きてきたわけです。で、フライをやったり海釣りに出かけたり・・・と、逆に言えば釣りにバリエーションが出てきたわけですね。
フライはどちらかと言うと作るのが面白くてやっていたようなもので、今まで大きな魚はほとんど釣ったことがありません。従ってこの釣りも自然消滅に近い形でやめてしまいました・・・放浪の釣り人はいったいどこに落ち着くのか・・・(笑)。
当時、餌釣りで上げた30cmアマゴ・・・尺アマゴは初めてでしたが、餌はミミズです。
フライとかルアーで魚を釣り上げようというのは、実はなかなか高尚な釣りなのであって、私は以前から興味も持ち、一揃い道具も持っていたのだが、なかなか本腰を入れるには至らなかった。
理由は簡単である。あまり釣れないからである。鮎に気を奪われていた上記の頃はともかく、2000年あたりから以前やっていた海釣りに再び目覚め始めたのは、福井新港で針に掛かった大スズキが発端である。そいつは、その巨大な身をくねらせ、大きく水面をジャンプした。私はその姿を見て、頭の中が真っ白になってしまった。その時の餌は生きた小鯵であったが、その時以来、そんなでかいヤツをルアーで釣ってみたいと思うようになった。
何故ルアーかと言うと、ダイレクトなアタリ・・・コレだけである。鮎釣りでもそうだが、私はアタリの瞬間が好きだ。従って過去、餌釣りでも「脈釣り」しかしていない。天秤をつけたり、錘をつけたりするのがいまいち好きになれないのだ。
また、餌釣りで釣れないとイライラするが、ルアーで釣れなくても、わりと平気だ。それになんと言っても道具はロッドとリールとルアーだけという身軽さが非常に良い。見切りをつけてやめる時も簡単だ。だから逆に気軽に釣りに行ける。
そんな時HP仲間の掲示板で知り合った若者にシーバス釣りを教えてもらった。そして初めてのルアー釣りの釣果が上の写真だ。ちっこいミノーに食いついてきたのである。私はまたまたこの釣りに夢中になった。
この年は夕方になると揖斐川、長良川、木曽川河口まで出かけていって釣りをした。しかしいまひとつの不満は、釣ったシーバスが臭いことでした・・・美味しい魚を釣るというのが私の身上ですから、鮎も川を選んで釣っていました。それが、大きな魚が釣れるということは楽しいのですが、いざ食べる段になってくると、不満が募ります。
そんな時、その若者がアオリイカ釣りに誘ってくれたのです。魚菜とじょしゅと4人で行ったアオリイカ釣りは私に大きな転機をもたらしました(南島町イカ釣り記参照)。
そんなわけで(笑)、三重県の美しい海(熊野灘)に惹かれた私は、鮎釣りの時と同様翌年(2002年)の2月に志摩半島の大王町船越近辺に小さな家を衝動買いしてしまった。海のない岐阜県人にとって、海のそばに暮らすというのは一種憧れに近い。買った別荘も目の前が深谷水道で、朝早くから漁船の音がした。
深谷水道・・・この右手に家があった
もちろん魚菜がやって来る・・・(笑)
海辺に家を買えば次に買わなきゃならないものは・・・ボートに決まっています。2月に家を買い、5月にボートを買いました。なんか知らんが、お金が減っていきます。ハハハ!
船越港に浮かんだYAMAHAのCUDDY23、115PS。
オプションをボチボチつけていきました。
じょしゅにも運転させたりしてご機嫌をとります・・・
その後船を出す時はほとんど魚菜と一緒でした。
ジギングをはじめたのはこの後です。釣果は別ページに書きますが、サビキとかキス釣りなんかではけっこうな釣果でしたが、最初ジギングでは何にも釣れませんでした。シマノのステラが泣いていました(笑)・・・しかし釣れないと燃えるのも事実です。ポイントが分からないなら海底地図を買え、それでもダメならジギング船について回れ(笑)!・・・結局これが一番確実だったりして・・・。何とかボツボツでも釣れるようになったのは2年後ぐらいからでした。
三重県の海はきれいで好きなのですが・・・特に英虞湾の美しさは素晴らしく、船を走らせるだけで爽快なのですが・・・表に出ると熊野灘のうねりが小船を襲ってきます。波が荒くなって狭い深谷水道に逃げ帰ることができればまだしも、あまり波が高いと御座経由で英虞湾口から帰らねばならないこともありました。本当のベタ凪ぎは年に数日ではないでしょうか。またそんな日に限って魚は釣れないのです。岐阜から3時間かけて行っても天気予報が外れ、ぜんぜん船が出せないことも多く・・・その他いろいろな事情もあって、次第に行かなくなり、家も売ってしまいました。家を売るとさらに行かなくなり、最近は年に2、3度しか行かず、行っても釣りではなく英虞湾観光だったり・・・内心の釣りに対する情熱を抑えながら暮らす毎日が続きました。そして今年(2007)、そんな状況の下で京福マリンを訪れたのでした。以下、2007年釣行ページに続く。