雑文集 V

 

自尊心

 自尊心という言葉は大変難しい言葉だと思う。誰もが程度の差こそあれ、いくばくかの誇りないし自尊心を持って生きているだろうし、それを傷つけられた時の憤りも多かれ少なかれ覚えているだろう。しかし皆本当に自尊心ということを分かっているのだろうか? たとえば以前に自分の誇りが傷ついた時のことを思い浮かべて、その傷ついた自尊心は本当の、真の自尊心であったのかどうかということを考えたことがあるだろうか。たとえば会社で、会議かなんかをやっていて、自分が自信を持って提案した事案が衆目の中で誰かに否定された・・・と仮定しよう。こういう時に自尊心を傷つけられたと思う人は多いと思う。自尊心を傷つけられて頭が混乱し、ムキになり、その後反対意見を言った人を違った場面でこき下ろしたり、陰口を言ったり・・・こんなことから人間関係まで悪くなったり・・・まったく同じでなくても似たような経験は無いでしょうか?事の発端は「自分の自尊心を傷つけたから」という理由です。誰しも、仕事でも趣味の領域の中でも、自分が「よく分かっている」とか「よく知っている」と思っていることはいくつかあるものです。そしてそれを否定されたり無視されたりすると、当然面白くない。その時に本当に大事なことは「どちらが正しいか」ということであるにもかかわらず、自分が得意だと思っていた領域を侵されるたということで、腹を立てる人が多いのである。そしてこんな場合の自尊心を(言葉の意味をあまり考えもせず)ほとんどの人が本当の自尊心だと思っているのである。私から言わせるとこれは単なる「自惚れ屋サン」なのだが。

 英語でPrideという言葉を辞書で引けば分かりやすいが、この言葉の意味には「誇り、自尊心、うぬぼれ、自慢、高慢、尊大」などという言葉が並んでいる。考え方を変えると「誇りや自尊心」はひとつ間違うと「自惚れや高慢」につながってしまうものであるらしい。誰しも誇り高い人間でありたいと思いながらそれがいつしか逆に「詰まらない自惚れ屋サン」になってしまうのは何故か・・・本当の誇りとか自尊心というのは一体どういうものなのだろうか。

 これは私の意見であり、けっして自惚れているわけではないが(笑)、誇りとか自尊心というものは「自己の内面(心)」に帰すものであって、他人に対して行使したり見せびらかしたりするものではないのである。この規定が曖昧だから、自尊心という言葉の意味が曖昧になってくるのである。たとえばよく知っていることをことさら他人にひけらかすような輩は私に言わせれば自尊心を持たない人間である。自分が間違っていることに気が付いた時は素直にそれを認めることが出来る人間はちゃんとした自尊心を持った人間である。単なる成金で偉ぶっているヤツは笑って許せるとしても、たとえば政治家、芸能人、家元・・・それぞれの道を究めたとされる人々でも、まったく鼻につくような高慢チキがいるが、こんなのはニセモノである。だいたい偉そうにしている人間ほど真に偉くはないものである。なぜならそれは自分以外の他人に対して自分の得たモノを見せびらかしているだけで、それにつられてオベンチャラを言う人間に対して快感を得ているだけであり、こんなものは誇り高いということとは無縁の所作なのだから。逆に本当に道を究めた人は寡黙であり、真摯であり、偉ぶらない人が多い。つまり自分に対して誇りを持って生きるいうことは、知識やら経験を詰め込んで自分が他人に対して偉くなってゆくということではなく、自分が自分に対して恥じない自分であるかどうかということを価値基準に生きてゆくということなのである。違いますか?

 

東尋坊

 その日は私だけがバイクに乗り、助手とK君夫婦とその子供たちは車に乗り、私の後に付いて走っていた。昼間は海に潜り、夜に三国海岸の町営温泉でゆっくりしたあとの、夜の10時過ぎの話である。そのあとキャンプをし、花火で遊ぶ予定だったので、テントを張るのに適当な場所を探していたのだ。私がバイクを止めて降りてゆくと、後ろに乗っていたK君夫婦が「さっき東尋坊の入り口あたりで、女の人が倒れてた・・・いや、マネキン人形だったかも・・・」と、言うではないか。マネキン人形がそんなところに落ちているわけは無い。多分それは人間に違いない。不吉な予感を感じながらも私は戻って確かめることにした。助手も「行こう!」と言う。三国方面に戻り、ちょうど東尋坊の崖に行く分疑点に差し掛かると、確かに赤いスカートを履いた女性が仰向けに倒れていた。K君と二人で近づいて見ても・・・ピクリとも動かない・・・。全体に細い手足、顔の色も血の気が無い・・・死体か???。正直言ってこの時の私の心臓はドキドキと鼓動していた。もし、死体だったらどうしよう・・・警察を呼んで、いろいろなことを聞かれるんだろうなぁ・・・実際、こんな現実的な考えが胸に浮かび、「おっくうに」なっている自分を見出したが、これは単に「死体を発見したかも知れない」という恐怖から、現状を投げ出してしまいたいという衝動を感じたせいだろう。しかし、この状況でまさか逃げ出すわけにも行かず、緊張感で心を震わせながら恐る恐る近づいていってよく見ると、胸が微かに呼吸しているのが見えた。「生きている!」・・・生きていることが分かってホッとしたかというと、そうではない。今度は倒れている人物に対する猜疑心がムクムクと頭をもたげてきたのである。何故、こんなところに倒れているんだろう・・・。いったいどこの誰なんだろう・・・。とりあえずさらに近づいて、声をかけた。「大丈夫ですかー?」・・・二度、三度声をかけた時、それまで動かなかった女性の、頭の上に置かれた右手がスーッと下に動いた。正直に告白すると、この時が一番怖かった。女性は起き上がろうとしてごくゆっくり頭を上げようとしているが、実はこの時右手に止めた車のライトがちょうど女性の顎の辺りから顔を照らし・・・そう、(彼女には悪いが)実に気味の悪い形相に写っていたのだ。普通なら起きようとしているのだから肩を抱えてやるとか、手助けをするのだろうが、私もK君も手が出なかった。夜中にこんなところに倒れているのは・・・ひょっとしたらゾンビかもしれない・・・。こんなあとで笑ってしまうような考えが実際に心に浮かんだのだから仕方が無い。息を呑んで見つめていると、やっとの思いで女性は歩道に座った。年のころ60半ばだろうか、生気の無い、青白い顔でうなだれて、無言でうずくまっている。

 「どうしたんですか?」私は尋ねた。最初彼女は俯いたまま何も答えなかったが、そのうちに小さな小さな声で、「東尋坊は・・・どっちですか・・・?」と、初めて声を出した。「東尋坊?すぐそこですけど?」と私は左手を指差し、何も考えずに答えた。顔を見て、声も聞き、とりあえず人間であることが分かると私も落ち着いた。あとはどうしてここに倒れていたのかという事情を聞かなければならない。と言って何を聞けばいいのか・・・。ひょっとしたら少し頭が変な人かもしれない。「どこから来たんですか?」という問いには福井からです・・・と小さな声で答える。彼女はそして「ごめんなさい」と言い、「もう(私にかまわずに)行ってください」とも言ったが、表情もしゃべり方も、ただならぬ気配である。「東尋坊には何をしに・・・」ここで私はこの自分の問いに自分でハッ!とした。そして彼女の返事も予想通りであった。彼女は目を伏せ、苦しげな表情で、やっと聞き取れるかどうかというぐらいの声でこう答えたのだ。「・・・もう、なにもかも・・・イヤになって・・・」。私はこの時初めて現実に直面した。彼女は自殺すると言っているのだ!。考えてみれば奇岩絶壁の東尋坊は自殺の名所でもある。断崖のあちこちに「思い直せ」とか「相談はここに・・・」とか立て札が立っている。頭から一瞬、血が引くのを感じた。・・・ど、どうしたらいいのか!?。「ちょっと待って、今警察呼ぶから・・・」。かろうじて頭に浮かんだままを声に出すと、彼女は力無く首を振りながら、「警察に連絡すると家族を呼ぶから、呼ばれると私が困るから・・・」と言う。だからこのまま捨て置いてくれと言うのである。「そんなわけにはいかないよ!」・・・このあたりから私は冷静になっていた。自殺すると言う人を置いてこの場を立ち去るわけには断じていかない。それに彼女は、しゃべり方を聞いても頭が変な人でもない。K君が「警察を呼んできます」といって車に向かう。代わりにK君の奥さんのM子が降りてきて、事情を聞くと、目から涙をあふれさせた。それを見た女性はしきりにM子に向かい「ごめんなさい、泣かないで・・・ごめんなさい・・・」と繰り返していた。私はそれを見て、「あぁ、この人はやさしい人なんだ」と思った。私は彼女を、哀れんだ。この世はやさしい人ほど傷つくように出来ているのだ。後で分かったのだが、彼女は右目の下に青痣を作っていた。おそらく殴られた跡だろう。やったのが旦那か、息子かは分からないが、今巷間を賑わすドメスティックヴァイオレンスかも知れない。しばらくして車が2台来て、1台は警察だった。もう一台は彼女を我々より先に発見して警察に連絡したカップルの車だった。警察は手馴れた様子で事情を聞き、私も聞いたことを説明した。特に家族に会いたくないと言っていることは強調しておいた。彼女の言うように警察が家族に連絡して彼女を家に戻してしまったらおそらく元の木阿弥になってしまうだろう。最後に彼女が立ち上がった時、私は思わず彼女の手をとり、「がんばってね、死ぬなんて言っちゃダメだよ」と励ましていた。自殺するなんて人には会ったことが無かったが、やはり世の中にはこうして苦しんでいる人が一杯いるのだろう。彼女がこのまま簡単に幸せになるとは到底思えないが、こうやって関わった人間の励ましが僅かでも彼女の「生きる」力になってくれたら・・・と思う。警察には言わなかったが、実は彼女は私との会話の中で、ポツンとこう言っていたのである。「力がなくなってここに倒れていても・・・誰も助けに来てくれなかった・・・」と。これは裏を返せば「誰かに助けて欲しかった」と言っているに等しい。これはまだ生きる力が彼女の中にあるという証でもある。なんとか生きて、いつか幸せを感じて欲しいものだ。

 ところで問題は助手である。私とK君が恐る恐る彼女に近づいている時、恐怖のあまり車の中でドアをロックしてなりいきを見ていたそうである。自分から「行こ!」って言っておいてコレである。そのうえ呆れたことに一件落着のあと、私が元の場所に戻り、テントを張ろうと言うと、助手を筆頭に全員がもうキャンプはやめて家に帰ろう!と一致団結したのである。びびりもココまでくると笑ってしまうが、ま、今の時期、バイクで夜ぶっ飛ばすのも悪くないか・・・と思い、そのまま趣味千山に引き返した。帰り道で、私の脳裏には彼女の寂しそうな顔が焼きついて離れなかった。

040808

 

好きな人嫌いな人

 万人を愛せる人はいないだろう。といってあんなのはイヤだ、こんなのはイヤだとわがままを言うのもあまり良いことではないとは思うけれど、実際は心の奥底で誰しも好き嫌いという感覚は持っていることだろう。 私の場合、昔はある意味で今より心の広い人間であった。というのも、どんな人間でも心の中で消化し、その人に合わせることが出来た・・・と思うからである。当時の感覚は「こんな人もいるのか・・・あんな考え方をする人もいるんだ・・・」などと好き嫌いを言う前に、人間に対する興味が先に立ち、自分が不快であるとか何とかを考えなかったということもある。だから私はけっこういろんな人と仲が良かったのだ。私にしてみればいろんな人を見るのが楽しみだったのである。そしてそういう気持ちは今でも多少持っているのだが、最近 それがすこし面倒くさくなった。とくに自分を不快にさせる人間との付き合いを敬遠するようになった。こういった気持ちの変化が「歳をとる」ということなのかもしれないと少しは反省するのだが、やはり魅力の無い人間とはもう付き合いたくない自分が、厳然としてここにいるので、実際困っているのだ。

 まず私は「騒々しい人間」がダメになってきている。よく巷で「ネアカ」という表現があるが、多くの騒々しい人間たちは、ネアカとは騒ぎ立てることだと勘違いしている節がある。根暗(ネクラ)の反対語で使われ始めたのだろうが、この意味は「考え方が暗い」という意味であって、だからネアカというのは「考え方が明るい」という言う意味なのである。あくまでも考え方が明るく、前向きだということで、ギャアギャアと自分勝手に騒ぎ立てることではないのだ。同じように、「押し付けがましい人」もダメだ。自分の価値観を押し付ける人。この世にはいろいろな価値観が存在していてどれが正しいとか間違っているとか一概に言えないことがたくさんある。押し付けがましい人とはこのことが分かっていない人なのである。若者ならともかく、いい歳をして無遠慮に自己のチンケな価値観を振りかざす人・・・このての人とは同じ部屋にはいられない。よく子供が言うことを聞かないと嘆く親がいるが、それは多分自分の価値観を押し付けているからだ。誰だってそれは一番嫌うことなのだ が、本人はそれが分かっていないのだ。親心からならともかく、他人にそれをしたら嫌われるということが分からない人がけっこういる。「愚痴しか言わない人」「自慢話しか言わない人」と同様、尊敬できない。昔は自慢話も愚痴もじっくり聞いてあげることが出来たが、最近は願い下げだ。聞いていてもそこからは何も生まれないし、第一楽しくない。愚痴も自慢も裏を返せば同じことだと気がついて欲しい。「ひそひそ話をする人」も好きではない。この世は普通の声でしゃべればいいことばかりであり、声を落とすということは自分に負い目のある人間である証拠だ。

 反対に好きな人は・・・上記の逆である人・・・つまりは自分がそうなりたい と願っている人のことだ。考え方が明るく、人を楽しくさせる人。人には人が感じるオーラみたいなものがあり、時と場所によって発生量は違うのだが、それが大きい人はやはり人間的に大きな心を持った人なのだ。一緒にいるだけでなんとなく楽しい気分にさせてくれる人がいい。これは理屈ではなく感覚であるし、一朝一夕でなりたいと願っても簡単になれるものではないけれど。人と人は心で会話をし、結局心どうしが絆を結び合っている。だから自分の心の大きさ広さが全ての窓口なのである。

041208 

 感謝ということ
 

 今までの私に足りなかった意識に、ある日突然気がついた。それは「感謝する」という意識だ。私は今まで、自分の人生は自分が決めて自分でやってきたのだと思い込んでいた。自分で考えて、予定を立て、行動し、結果は自分で全責任を負えばいい。だから人にも(自分に対して)何も文句は言わせないし、そういう意味では好き勝手な生き方をしてきたのである。金だって、自分で稼いだのだから自分で使って何が悪い!とまあこんなふうに思っていたし、普通は誰だってそう思っているだろう。しかしつらつらよく考えてみると、給料をもらっているにせよ自営しているにせよ、誰かが自分に対してお金をくれているから、私はこうして生きていられるのである。商品を売ってお金をもらう・・・対等のように思われるかもしれないが、商品を売ってもらったお金の中には商品代以外に、当然ながら自分が生活してゆくためのお金が含まれているのだ。払うほうだってそれは分かっている。・・・これって、とても有難いことではないか!。以前このコラムにも書いたが、腹が減った時に自分で飯を作るのは大変だし、歯が痛くなった時に虫歯を治してくれる人がいなかったら本当に大変だし、シェイプアップをしたいと思った時にちゃんとエアロビクスを教えてくれる人も必要だし、第一自分が子供のころに、意思とは無関係に私に読み書きを教えてくれた人がいるから、こうしてちゃんと字が書けるのだし・・・。辛いことがあった時に慰めてくれた人、間違ったことをした時に叱ってくれた人、愚痴を聞いてくれた人、一緒に楽しく遊んでくれた人・・・考えてみると私が今まで生きてこられたのは、自分の力で生きてきたのではなく、みなこれらの人によって生かされてきたのである。強いて言えば私の中にあったのは「意思」だけであり、その意思を実現してくれたのは全て周りの人達であったわけだ。
 こんなことに、なぜ今まで気がつかなかったのだろう。いや、気がつかなかったというのは厳密に言えば間違いだ。潜在的には気がついていたが、思考として思い至らなかったのである。人というのは面白いもので、言葉に出すと突然意識が変わることがよくある。例えば何かの場面で「私はこう思う」と言ってしまってから、内心「俺ってそんなふうに思っていたのか・・・」と自分で驚いたりすることがあるが、意識が内在している時はそれに気がついていないこともある。そういう意味で「言葉」とか「文字」は大切なものである。相手に「バカヤロー」といえば相手が嫌いになり、「好きだ」といえば本当に好きになる・・・逆だ!と思うかもしれないがそうではない。言葉や文字にはそういった不思議な側面があるのだ。
 話がそれたが、「人に感謝しなさい」とか「生かされている」とかの表現自体はあらゆる人や先人が言っていることでその言葉自体に新鮮味は無い。いろいろなことを体験し、紆余曲折を経てたどり着いたのがこんな「月並みな」言い古された道徳的感覚だったのである。誰かに言えば「そんなこと分かってるよ!」と言われそうなことだが、皆が分かっているとは思えない。大事なのは自分が本当に感謝することと、その気持ちの実践であろう。人というのは意外に周りの親しい人ほど(言葉は悪いが)ないがしろにしてしまう。親しいがゆえのマンネリズムかもしれないが、時には本当に傷つけあってしまうことも多い。しかし人が一番大切にしなければならないのは、自分を取り巻く人達である。私は今まで(性格は良いのだが)口が悪く、そういう意味ではいろんな人を傷つけてきたかもしれない。まずそれを直して行こうと思う。突如私の意識に現れた「感謝」という言葉の実践はそんなに難しくないのである。やっと分かったか!という人もいるかもしれないね(笑)。

 

仲直り

 大変面白い話だったので書いておこう。同じ会社で働いている二人、最初はそうでもなかったが、何があったのかここのところとにかく仲が悪く、顔を見ても口をきかないどころか挨拶もしない。お互いに相手の悪口を言い、ここ数年なんともならない関係であった。ところがある日、二人が車ですれ違った。その時一人が急に頭が痒くなり、右手で頭をかいた。これを見たもう一人が相手が挨拶をしたと思い込み、自分も挨拶を返そうと笑って手を上げたのである。それにつられて頭をかいたほうも笑顔を返した。そしてその後二人は挨拶を交わすようになり、これをきっかけに仲直りをした・・・というのである。身近に起こった単純明快な実話であるが、この話には面白い人生のヒントがある。まず、根本的に、人は皆と仲良く笑いながらやってゆきたいと思っている。ところがちょっとした行き違いやら詰まらないこだわりやらで、相手と仲違いするわけだ。そしていったん仲違いすると、相手のことを全て認めず、お互い意地を張り、けっして自分から打ち解けようとはしなくなる。そう、この話のように、相手が折れてくるのをお互いに待っているのだ。しかしこの扉がなかなか開かないし、開けないのだ。「いい加減にしろ、あの馬鹿が!」なんてお互いに思っているのだから始末が悪い。こういう時はお互い「もう永遠に仲直りの機会は無い」と思い込み、その反作用で相手のことを嫌いになろうとするのである。「これだけいやなヤツだから、俺は付き合わないんだ」と理由付けをするわけである。また、誰しも自分の生活圏の中に必ず自分にとって「苦手な人」というのがあるだろう。なんとなく雰囲気が合わない、ちょっと言葉を交わしたが、しゃべり方が気に食わない・・・。こんな初期の簡単な理由で相手のことを嫌いになって行く場合もけっこうあるだろう。こんな事例もある意味で同じ心理状態かもしれない。しかしそれは(実は)お互い様なのである。 面白いことに、よくよく話を聞くとこの世のほとんどの人が「自分のほうが正しい」と、漠然と思っているようだ(笑)。しかしこれは妙なことで、もしそうなら、実際はほとんどの人が誤解をしているのだ、とも言えないか?。もっと言うなら、みな人間なんて同じようなことを考えているのだとも言えないか?。生活習慣とか、考え方とか、性格が多少違うだけで、人間の根本がそんなに多様だとも思えない。ということは、簡単に言えば、自分の考えてることを他人も考えている・・・ということを知ることが大切なのである。

 冒頭の話で分かるように、結局誰しもが内心では仲良く皆と暮らしたいと思っている。仲直りをしたいと思っている。そう思い至ったら・・・詰まらないこだわりや意地は捨てて、相手の懐に飛び込む度量が欲しい。自分から「ゴメン!」って謝ってみな!。苦手な人にも一度じっくり話かけてごらん。けっこう話の分かるヤツだったってこともよくあるから。これが出来ないと、人生が難しくなるのだ。生きてゆくのが大変だ・・・とため息をつかねばならないのだ。妙な意地を捨てると、急に人生が簡単明快になり、楽しく暮らせるようになるのである。

050504

当事者としての空白の一日

 今年の夏のことである、突如妻の妹から私の携帯に、「旦那の頭が狂った!」と慌てふためいた声で電話があった。話を聞くと、なんでも突如自分が何をしているのかが分からなくなり、今日の日付も、仕事の予定もまったく思い出せず、 それどころかまだ結婚もしていない娘に向かって「子供はいくつになった?」と聞いたり 、行ってもいないバイクツーリングに行ったとか、挙句の果てに女性は卵を産むのか・・・などと頭が壊れたとしか言いようのない言動が続いているという。すぐに病院に行って診察をしてもらったほうがいいと言い、近くの病院に行き、すぐに入院となった。詳しい経過は省くが、結果的には脳の中の血管の異常で、脳の血流が悪くなり記憶などが飛んだのだと分かり、ガンマナイフの手術を受けて、一ヶ月ほどで回復した。この話を書くのは、これから私の身に起こった出来事を書く伏線として覚えていて欲しいからである。

 先日(09年11/17)、突如妻の頭が、変になった。その日はスポーツクラブでエアロビをやった後、ミナマリたちと4人で映画を見る約束になっていた。エアロビが終わったあと、「8時15分にロビー集合!」と言ってジャグジーバスに入り、シャワーを浴びてロビーで待っていると、マリがやってきて、15分ちょうどにミナがやってきた。しかし5分待っても妻がやってこない。マリが「そういえば奥さん、ロッカーで携帯を持ってうろうろしていたよ・・・」と言う。妻ののんびりはいつものことだが、今日は映画を観るのだし、その前に食事もするのだから時間が無い。「何をのんびりしてるんだ!」と腹を立てているところに、15分も遅れて妻がやってきた。この時「何してたの!遅いじゃん!」とマリが言ったが、(今考えれば)妻は謝るわけでもなく「?」って感じで無表情であった。車に乗り込んで、マリが出発し、続いてミナの乗った車が出発し、その後に妻の運転する車が出発・・・のはずが、出ない。妻が運転席で「なんだか、変・・・ちょっと運転できない気がする・・・替わって」と言う。体調でも悪いのかと仕方なく私が交代して出発したが、どうにも妻の態度がおかしいのである。

 ぼんやり前を見つめ、言葉も少なく・・・とにかくいつもと様子が違う。そして私が「今日これからどこに行くか分かってる?」と聞くと、少し考えて、「分からない」と答える。この時私は一瞬彼女が冗談を言っているのだと思った。しかし妻の態度には冗談を言っている様子が無い。「本当に分からないの?」と聞くと「うん」と頷く。「これからみんなで映画を見に行くんだよ」と言うと、「え?映画?」と、初めて聞いたような顔をした。その様子に不安になった私が「今日は何月何日か分かる?」と聞くと・・・ずっと考えて「分からない・・・」と答えるではないか。私の頭からスーッと血が引くのが分かった。(ちょっと待て・・・ちょっと待て・・・冷静に・・・)私は自分で自分に言い聞かせた。まだ冗談を言っているのだという感覚と、大変なことになったという感覚が交差し、頭が混乱する。この場合の「まだ冗談を言っている」というのは願望である。冗談であって欲しいという願望でしかない。私は矢継ぎ早にいろんなことを彼女に問いかけた。その結果、生年月日とか名前は覚えている。私のことや娘、周囲の人のことは分かる。そして今日の日付や出来事はもちろん昨日や一昨日のことはほとんど思い出せない・・・ことが分かった。言葉をしゃべれるのだから脳全体がおかしくなった訳ではないだろう。先般の妹の旦那の件で少し勉強した私は妻の脳の「海馬」という部分に異常があることを認識せざるを得なかった。

 すぐにマリに電話をして、様子を伝え、病院に行くために映画をキャンセルした。もし脳内出血なら一刻を争う。 保険証を取りに家に行き、すぐに近くの病院に向かった。その道中で妻は「どこに行くの?」と聞き、私が「病院に行く」と答えると、「なんで病院に行くの?」と不思議そうに聞く。理由を説明する私・・・「今日ミナマリと映画を見に行く予定だったことを覚えている?」「・・・覚えていない」「だから病院に行くんだよ」「私、おかしくないよ!」。だいたいこんなやり取りだ。しばらくすると「どこに行くの?」と聞く。「病院だよ」と言うと「どうして病院に行くの?」と同じ質問をするのである。病院に着くまでにこの繰り返しが10回以上続いた。この時の私の絶望感を分かってもらえるだろうか。自分がどうして病院に連れて行かれるのか分からない妻。説明してもその言葉を3分間も覚えてもらえない私の狼狽が想像できるだろうか。

 病院に着いた。夜間診療入り口と書かれた扉を開けて受付に向かう。 その途中で妻が不安そうに「私、入院するの?」と聞く。「いや、それは分からないけど・・・」と言うと、「私、絶対入院はしないからね!・・・入院すると一人になるから、絶対入院しないからね。」と言う。以前この病院に入院したことがある妻は(そういえばあの時も原因不明の熱であった)その時の雰囲気を覚えていたようだ。「もし入院したら、一緒に泊まってやるから」と言うと、「絶対?」と少し安心した顔をした。とりあえず受付を済ませ、救急診療の受付の前で待つ。その間も妻は「どうして病院にいるの?」と私に聞く。私がその理由を最初から答える。なんとなく納得する妻。そして3〜5分後、また「どうしてここに居るの?」と聞く。その繰り返しの中で、「私は入院はしないからね!」と何度も言う・・・。私には妻の頭がおかしいことが分かるが、妻には(自分の頭がおかしいことが)分からない。いや、なんとなく変だということは分かるのだが、その理由を覚えていられないのだから始末が悪い。何度も何度も理由を説明しながら待つ私はだんだん絶望感にとらわれ始めた。この状態がもし一生続くとしたら・・・ (これは考えるのも恐ろしい設定であった。)これから一体何をどうすればよいのだろう・・・この状況が悪夢でもいい、とにかく夢であって欲しい!と心の底から願った。 車の中でも、そして病院に着いてからも、私は妻の手をずっと握り続けていた。

 診察が始まった。女性の医者の胸元を見ると名札の上部に「研修医」と書かれてあるのが少し不安である。まずは認知症のテストがなされた。以前渡辺謙の出演していた映画と同じ質問が女医の口から発せられる。「さくら、猫、電車」この言葉をまず最初に覚えさせ、別のことを話した5分後に同じ質問をする・・・映画と全く同じである。妻はそれでも「さくら、猫・・・」までは答えられた。しかし「電車」はどんなに考えても出てこなかった。次は実際のモノ、時計だとかハンマーなど5種類を見せられ、それを隠した後、答えるというテストである。妻はこれも3つしか答えられなかった。「認知症が認められますね・・・CTを撮りましょう」と言われた。私がその時まで一番恐れていたことは、「脳内出血、脳梗塞」である。これらが原因なら、生死にもかかわるからだ。幸い頭痛とか吐き気は無い様子なので多分そうではないかもしれないと思っていた。次に腫瘍が考えられるが、これも症状がこんなに急に来るとは思えない。原因は一体何なのだ!。初診を終えて廊下に戻ると心配してミナマリが様子を見に来てくれていた。暗い病院 の待合所が二人のせいで幾分賑やかになったが、私の心は暗いままだった。

 CTの結果。脳内出血は認められず、特に脳の萎縮もなく、ただ脳の頭頂付近に1cmほどの 腫瘍らしきものが見られるが、それは位置から言っても今回の症状とは無関係であるとのこと。すぐに生死に関ることが無いことが分かり、少しホッとするが、なにせ原因が分からない。医者も専門医ではないため、後日MRIを撮って詳しく調べるしか方法がないと言われた。MRIは予約制のため金曜日にしか空きがなく(今日は火曜日)、早くしたいなら入院をしてMRIのキャンセル待ちも出来ると言うが、検査予約をしてとりあえずは家に帰ることにしたのである。待合室で、「私、変なキノコ食べた?」と言う妻。「変なキノコじゃないよ、ナメコは食べたけど」・・・以前この病院に入院した時、結局原因不明ではあったが、彼女はその原因を毒キノコを食べたせいだと信じている。それを突然思い出したようだ。二日前に送られてきたナメコを実際食べているが、そのことをふと思い出し、その入院(自分が信じている原因)とダブったのだろう。

 ミナマリの空しい励ましを受けながら駐車場まで歩く。実際こんな時の励ましは、その気持ちは嬉しいが、空しいものである。軽い病気や怪我ならともかく、認知症なのである。もしこれが認知症の発症で、今後治らないどころかますます重度になっていくとしたら・・・「頑張ってね!」などと言われても心が凹むだけである。「私、変なキノコを食べた?・・・」とつぶやく妻の手を引きながら、ミナマリに礼を言って車に乗り込んだ。

 「私、どうしたの?」 ベッドの上で私は妻を胸に抱いていた。 「記憶が無くなったんだよ」「え?私、おかしくないよ」・・・今日のこと詳しく話す私。話し終わってしばらくして、「私、どうしたの?」 と再び質問をする妻・・・何度目かに、私の目に涙が溢れた。そして無性に妻がいとおしくなった。こんなことになるのが我々の運命だったのか?。妻と出合ったのは高校生の時。まぶしいほどの美人(私にとっては)で、とてもオレなんかが付き合えるとは思ってもいなかったし、実際私の友人のKが彼女を好きだったので、手も握ったことも無かった。それが長い紆余曲折を経て一緒になった。一緒に生活をし始めてからもいろんなことがあった。 楽しかったことや、苦しかったこと・・・様々なシーンが思い出された。私はいつも彼女を愛していた。誰よりも愛していた。それなのに、心が歪んでいる私は、いつも彼女を傷つけることばかりを口にしてきた。「オレって、お前をずっと傷つけてきたのかなぁ・・・」私は彼女を抱きながら、そう声に出した。「え〜、そうなの?」と妻は少し笑いを含んだ顔で答えた。その無邪気な顔を見て、私は泣いた・・・無性に泣けてきたのである。そして自分は今、一番失いたくないものを失う寸前であることを知った。私にとって一番大切なものは彼女だったことに気がついたのである。 そして私はもし彼女がこのまま治らなかったら、ずっと一生そばについていてやろうと心に決めた。会社も辞めてやれ!。もうずっと看病してやるぞ、と。そしてそれと同時に、なにがなんでも治してやるぞ!という根拠の無い決意も心に湧いた。私はその決意を言葉にすることでそれにすがりたかった。「絶対に治してやるからな、絶対に!」私は その決意を妻にも言った。妻が私の胸で頷いた。

 眠りについたのは午前一時を過ぎていた。夕食も食べていなかったが腹も減っていなかった。

 4時に目が覚めた。すぐに妻の様子を確認し、眠っている様子に安心する。私は隣の部屋でPCに電源を入れ、すぐにネット検索をした。「突然記憶が無くなる」をキーワードに検索を掛けると、いくつかの記事が目に留まった。その記事を片っ端から読む。一番よく似た例が書かれている記事があった。「私おかしくなったからすぐに帰ってきて!」と妻が夫に電話をしてきた。そして3分後に同じ電話をしてきた・・・そしてやはり3分後にも同じ電話・・・。つまり電話をしたことをすぐに忘れて電話を掛けてきているのである。直感で「これだ!」と思った。そしてそこに書かれていた病名は「一過性全健忘」。何かが原因で脳の海馬域の血流が不足して起こる症状で、24時間以内に回復し、再発はほとんど無い。原因も不明なことが多い。そこで失われたその日の記憶は戻らない。こんなふうに書かれていた。24時間以内・・・というのが大切らしい。つまり今日中に妻の症状が元に戻れば、この一過性全健忘である率が高いかも知れない。こんなに突然に直前の記憶が無くなる病気は、脳内出血とか頭を強く打つなどの場合以外は無いようだ。私の心に少し希望が湧いてきた。

 そして、妻が5時ごろ起きてきて、私のPCの前に座った。そしてこう言ったのである。

 「昨日、なんか・・・私に言ってた?治してやるとかなんとか・・・」

 それを聞いた瞬間、私の抱いていた希望が現実となった。すぐさま「・・・今日が何月何日か分かる?」と聞くと、「・・・11月、十 ・・・八・・・?」と答えるではないか!。昨夜は日付どころか月さえ分からなかったのだ。それより何より、妻の目つきが昨夜とは違う。私は次々にいろんな質問をしたが、ほとんど的確に答えた。ただし昨夜の記憶だけは曖昧だ。 病院に行ってミナとマリが来ていたことぐらいをぼんやり覚えているだけだ。しかしとりあえず、彼女は回復している。この時の私は、心底、ホッとしていた。暗い絶望から、急に光が差した・・・こんな感じであった。だが、油断は禁物だ。8時に家を出て、この辺りでは有名な脳外科まで行って診察を受けた。冒頭の妹の旦那が手術した病院だ。そこでも認知症のテストが行われ、いろいろ聞かれたあとで、診断結果が下った。ズバリ私の予想通り「一過性全健忘」であった。いきなり、記憶が途切れ、一日で治り、しかも再発はほとんど無い・・・こんなことってあるんですかねぇ・・・と私が医師に尋ねると、「良くありますよ」と淡々と答える医者。毎月何人か発症するのかと思ったら、「(この病院で)年に1人か2人ですかね」とのこと。

 後日、MRIを撮り、腫瘍のほうも調べてもらったが、石灰化した髄膜腫で、大きくなる可能性も低く、ま、年単位の経過観察で良いでしょうということだった。よし、これで無罪放免だ、ヤッター!と飛び上がって喜ぶくらいの気持ちだった。妻のほうはもとより何が起こったのかは覚えていないわけだから、この気持ちは分からないに違いない。二人で喜べないのも淋しく不思議だ。

 こんなことでこの事件は一件落着した。この事件で私の感じたことは・・・自分が妻を本当にかけがえの無いものとして愛していた(!)ということ以外に、「当事者の気持ち」と言うことだ。たとえば今回の認知症の問題ひとつをとっても・・・TVや新聞で実例が取り上げられ、介護疲れの挙句殺してしまったり自殺してしまったりと、いろんなニュースを聞く。そして我々はそれを結局は他人事として眺めているが、当事者からすると本当に衝撃的で大変なことなんだなぁ・・・と、当たり前のことをこんなことになって初めて感じたのだ。実体験しないと本当の気持ちは分からない。それは想像力の問題でもない。逆に言えば、体験した人だけが分かる気持ちなのだ。体験した人同士でさえもその気持ちに差があるだろう。だから突き詰めると人それぞれに自分だけがその気持ちを味わうことになるのだ。この差がどうにもやるせない差となって・・・これが人生で本当に分かち合えない寂しさを生んでいるのである。私が経験したこの空白の一日は、私に様々なことを教えてくれたのである。もちろんどんなことでも悪い面と良い面が内在する。私がこの後妻に対して以前よりずっと優しい気持ちになっていることを考えると、妻にとってはまんざらでもない事件だったと思う(笑)。

 091226

 

 

父親の死と葬式

 父が死んだ。2010年7月の16日であった。大腸に穴が開き、腹膜炎から敗血症、多臓器不全で、倒れてから緊急手術を経てたった二日で逝ってしまった。83歳。日頃から健康に注意を払い、5年前の心臓動脈瘤の大手術も乗り越え、誰の手も借りずに元気であった。倒れてから手術まで数時間腹痛で苦しんだものの、あとは皆が枕元で別れをする時間だけを生きて、心臓を止めた。

 とても良い父であった。今つらつらと思い出しているのだが・・・子供の頃、私は父に叱られた記憶が無い。高校生の時、私がバイクを納入直前の乗用車にぶつけて破損させ、弁償で当時の父のボーナスが全額消えたことがあった。事故を起こしてすぐに父の勤め先に電話をしたのだが、当然叱られると思ったら、「身体は大丈夫か?・・・そうか、それは良かった」と言っただけで、後で一言も私を責めなかった。会社でも信望が厚く、誰からも好かれていたようだ。 他人にいやなことを言わず、真面目で努力家だった。だから退職してからでもいろんなところから声がかかり、結局72歳まで仕事を続けた。年金も企業年金と合わせて相当額を貰い、経済的にも私たちに迷惑を掛けることは一切無かった。不本意だったかも知れぬが死に際も含めてまったくもって立派な人生だったと感心する。私にこのような死に方が出来るだろうか。

 この何年間・・・いろいろな葬式に出る度に、親父のことを考えていた。『いつかは間違いなく来る』その時に・・・私はどう対処したらよいのか。 祭壇の花も外に溢れるくらい飾り立て、一見多くの人が集まると皆『立派な葬式』と言う。しかし私にはそうは見えなかった葬式も多い。確かに人は多いけれどもザワザワした葬式・・・主に町内会や会社関係が集まるとおしゃべりが多くなる。どの葬式に出ても、私はいつも「一体どれだけの人がその人の死を本当に悲しんでいるのだろう?」と思っていた。その人の死を悼み、悲しむ人が集まって初めて死んだ人も浮かばれるのではないか?。第一死んだ人の顔をその時まで見たことのない人が多く出席している。コレっておかしいよね。変ですよね?。いくら遺族の知り合いとはいえ、本人をまったく知らない人が義理で出席するのは弔いにはならない。遺族の気持ちを思い、その遺族を思いやって悲しみを共有しようとするならともかく、単なる義理で出席するのは実際変な話です。遺族のほうもなんだか権勢主義というか見栄というか・・・できるだけ多くの人を集めようとする人もいるが、元を糾せば葬送の儀。ひとかけらの悲しみもない人々を呼んで何を期待しているのか・・・。私には、人は勝手だが、私自身はそんな葬式を あげるつもりはまったく無かった。私は親父が死んだら、自分の納得のいく葬式にしたいとだけ考えていた。

 父の死は新聞にも載せなかった。もともと付き合いの希薄な町内会にも知らせなかった。呼んだのは家族親戚、知人、友人だけにした。私は会社をやっているが会社の人は誰一人父の顔を知らない。だから責任者に了解を得て一人も呼ばなかった。私の友人も中学高校時代から父を知っている人だけに連絡した。私は父の葬儀は「本当に父の死を悲しんでくれる」人々だけでやりたかったのだ。これが全てだ。言い換えればこれが私の父に対する最初で最後の愛情表現でもあった。それでも100人ほどが集まってくれた。それはそれだけ父が皆に慕われていたということだろう。83歳と言う高齢で、友人もけっこう亡くなってしまっていたが、10人以上の会社時代のゴルフ仲間や友人が来てくれたのも嬉しかった。父の死を全員が静かに悲しむ、そんな良い葬式だったと思う。

 私を育ててくれて、ありがとう。私はずっと、親父を尊敬していました。

 これは私が死に際の親父の耳元で親父に言った言葉です。

 父よ、さらば。

 

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