雑文集 U

 

「生き方―考え方」

 自分の身の回りに起こることは、すべて自分のせいで、起こるべくして起こるのである。人のせいにしてはいけない。皆がこのように考えたら、日本は、いや、人間界はずっと住みやすい国になるはずだ。こんなことを書くのも、人は知らず知らずのうちに自己の不遇を他人のせいにしていることが結構あるからだ。

 会社において言えば、自分が仕事をしていないのに、それを会社の待遇のせいにしたり、あるいは上司の仕事のやり方が悪いからだと言ってみたり・・・そんな人間がやたら多い。会社の待遇、つまり端的に言えば給料が低いのであれば、一生懸命やるべきことをやって出世するのが近道だし、上司のやり方が合わないと言うのであれば、自分のやり方を実績として回りに示せばいいのだ。つまり、そういった自己努力をどれだけやったかを評価されているのが現実なのに、「評価されないからやる気が起こらない」と考えるのは本末転倒であり、逃避なのである。他人の悪口を言うのは簡単である。他人のせいにするのが一番楽で、自分も傷つかない。
 学校で言えばたとえば数学が出来ないのを自分の努力が足りないからだと思わずに、先生のやり方が悪い…と人のせいにする。自分が数学が嫌いでやらなかっただけじゃないのか?それを先生のせいにすれば、確かに自分は傷つかずに済む。それは人間の持つ一種の防衛本能なのだろうが、すべてそうしていたら、結局自分があらゆることから逃回っているだけの、小さな人間になってしまうことを覚悟しなければならない。

 また、たとえば自分のほうが一生懸命働いている、デキる・・・それなのに何もしないヤツと同じ給料なのは腹が立つ・・・と言って不満を漏らす人も結構多い。心情としては分かるが、この考え方も間違っている。自分のほうが一生懸命仕事をやっているのなら、それでいいではないか。そのことがどれだけ自分の精神とスキルを高めてくれるかを考えれば、当面の給料の額なんて取るに足らない問題だ。周りにいる人たちは、見ていないようで、結構見ているものだ。ちゃんとやっている人にはちゃんとそれなりの評価が与えられ、それはけっして「金」というものには代えられない評価なのだから。金なんてものは評価のごく限られた一部に過ぎないのだ。それよりも人に信頼されることのほうがどれだけ自分の人生にとってプラスになるかを考えてもらいたい。

 会社に限らず、重要なことは、「自分が自分の人生を生きてゆくのだ」という意味をもっと真剣に考えることだ。人を妬んだり、馬鹿にしたりする前に、自分が自分に対して恥じない人生を送っているのかをもう一度振り返ってみよう。こう偉そうに書く私自身、今まで上に書いたような気持ちを持っていたし、人を妬んだこともある。しかし、それでは自分が決して幸せにはなれないことが、ある時分かったのだ。とくに人を妬むと言う気持ちは自己否定に近い、いやな気持ちである。他人が努力して勝ち得たものを自分が努力もしないで妬んでいるのは、実際、最悪である。人生とは「自分が生きる」ことだから、人がどうあろうと自分が納得する生き方をしなければならないのだ。人真似をするのもいいだろうし、それが嫌なら自分で考えて自分の道を探せばいいのだ。自由とは本来そういうものだ。

 「空腹の妙」

 私自身、ついこの間までは「ハラ減った〜」と思うといてもたってもいられなくなり、手当たり次第にモノを食い漁っていたが、最近ひとつのことに気が付いた。それは「空腹感」についてだ。もちろん歳のせいで量が食えなくなったということもあるが、次第に「空腹感」に耐えられるようになってきたと同時に、「腹が減ったなぁ…」というこの感じが、なかなかいいものではないか…と思い始めたのである。これは自分でも妙な感じであるが、実際、軽い空腹感を感じている時のほうが思考も行動も、はっきり明瞭なのは本当である。今まではそれに気がつく前に、食料を口に放り込んでいたわけで、だからそんなことに気がつくわけもなかった。「年の功」というヤツである。

 腹がふくれると眠たくなり、動作も鈍くなることは誰でも知っている。何かを夢中になってやっている時は「食うこと」すら忘れて、気が付いたら昼飯の時間はとっくに過ぎていた、ってことは良くあるが、その話とは少し趣が異なる。私が言いたいのは、「腹が減ったなぁ…」という自覚を持ちつつ、その状態を維持しつつ、何か別なことをやっている心持ちが「なかなかいい感じである」と言っているのである。

 そしてそれは空腹感だけではない。たとえば性欲についても同じであるし、睡眠でも(いまだ克服まではいかないが)同じかもしれない。食欲と性欲と睡眠という三大欲が満たされる前の状態、その時こそ人間が一番人間らしく振舞えるのではないか…と思うのである。人の行動の原点としてあるのは、欲求である。それがいったん満たされると、残るのは、大袈裟に言えば「虚無」である。逆に腹が減っているということは、その欲求を満たす為に、「この仕事を早く終らせよう」とか「よし、もうひと頑張りで、メシだ!」とか思うのであって、その時の精神状態は欲求が満たされた後とは大違いなのだ。私はその「精神状態」のことを言っているのであって、けっして「断食」だとかを勧めているわけではない。

 心に湧きあがる各種の欲求を満たす「手段」としての「金」についても同じことが言えるだろう。「アァ、お金が一杯あったらいいなぁ…」 こう思う時が一番人間として充実している時なのだ。満たされ過ぎた人は魅力が無い。 こう考えれば分かるだろう。いつもお腹一杯、飽きるほどセックスして、眠りたいだけ眠り、何でも欲しいものは手に入る…こんな生活は果たして幸せだろうか…。逆に満たされない人のほうが、本来の人間らしく、生きられるのだ。「不足」という言葉にもちゃんとした価値がある。満ち足りた人はけっして幸せではない。

 だから私は最近、空腹感を楽しみ始めた。「あぁ、腹減ったなぁ…なに食おうかなぁ…」こんな独り言をつぶやきながら、少し我慢しながら、PCに向かって今、これを書いているのである。

 

「愛国心について」

 今、ワールドカップを見ていて、愛国心について考えた。日本のチームが出ていれば、当然ニッポンを応援する。競技場で、テレビの前で、「ニッポン、ニッポン!!!」と応援する。勝てば胸がジーンと熱くなる。負ければやはり、悔しく、空しい。生まれ育った国、つまり祖国は国民の心の中に深く根ざす根底であるようだ。家族が社会の原点であるなら、祖国は人類そのものの原点である。中東の国々の激しい争いは自分の体を流れる血の争いだ。かように祖国とは人間にとって大切なものであるのだが、不思議なことに今の日本では「憂国」も「愛国」も語れない。というより、愛国という言葉自体が毛嫌いされ、この言葉を発するだけで偏見を受ける風潮にある。これはなにも右翼組織などが好んでこの言葉を使うからというだけでなく、この言葉自体があの忌まわしい大東亜戦争(第二次大戦)を彷彿とさせるからだろう。愛国心と帝国主義は全くカテゴリーに違いがあるにもかかわらず、 愛国 → 国勢の拡大 → 大東亜共栄圏の確立 → 帝国主義 → 他国侵略 → 戦争 といった一連の図式がすっかり定着してしまっているのである。その後の敗戦で、帝国主義が排斥されると同時に、愛国という文字まで有罪判決を受けてしまったのである。戦後50余年も経って、未だに敗戦の尾を引きずっているのだ。

 愛国心を語れない国民や国家は、実に寂しいと思う。それは国家であって国家でない。国を愛するということは家族を愛するということと同義なのだから。だから日本の外交が中途半端な弱腰外交にと言われるのも当然のことだ。国の愛し方を知らない人間が、どうやって他国と交渉が出来るのか・・・。また愛国心を堂々と語れない人間に、どうやって子供が教育できるのだろう。それはまるで人の愛し方を知らない人間に人生相談をもちかけているようなものだ。

 以前、昔の日本はこんなんじゃなかったよね。確かに侵略戦争に向かっていってしまったということは非難を受けて当然だろうが、これとて都合のいい思想(大東亜共栄圏)が軍部の野心的な思惑とかみ合ってしまったのであろうが、少なくとも日本人としての誇り、責任感は今の人々の数倍は皆持っていたように思う。他国に日本人が拉致された・・・などということが起これば、それはもう真っ先にその国に軍隊を送っていただろう。これはいい悪いの問題ではない。私は国民を守らない国家は国家ではないと思うからである。未だに国会などで論議されている「自衛隊」「憲法」・・・どれもこれも聞いていて歯がゆく、空しい。今の日本国憲法は戦後GHQが適当に(つまりとり急いで、したがって曖昧に)作った憲法ではないのか。この解釈をめぐって堂堂巡りの議論を重ねたって何も得られない。なぜ日本人は日本人の手による、日本人の憲法が作れないのか。こんなものの呪縛の元に、世界中から笑われて・・・私は正直、恥かしい。

 何も武器(軍隊)を振りかざし、戦おう!と言っているのではない。考えても見よう・・・。一個の人間同士の交渉にしたって、丸腰で無気力な人間と拳銃を持った元気な人間と、どっちが勝つ?百歩譲って、おたがいに武器をもたないとしても、自分を愛せない人間と強く愛する人間では、どっちが勝つ? 国際交渉なんてものは人間の力対力の交渉だ。その力の根源となるものが、すなわち愛国心なのである。ワールドカップサッカーの競技だけに「ニッポン!ニッポン!」と叫ぶ日本人を見て、こんなことが頭に浮かんだ。

「宇宙論について」

 宇宙論は面白い。何が面白いかと言って、何にも分からないところが面白い。
 中学の頃から天体に興味をもち、宇宙に関する本を何冊も何冊も読んだ。ガモフ全集なんて表紙がすり切れるほど読んだ。そして今でもたまに最新宇宙論がどうなったかを知りたくて、時々本を買って読む。現在も当然、以前からのビッグバン宇宙論が主流である。宇宙は何も無いところからある日突然爆発して生まれたのだそうだ。そう聞くと誰だって「ん?、ちょっと待てよ?」と思う。何も無いところからどうやってこれだけの質量(天体など)がある宇宙が生まれるんだ?と思う。これは当然のことだ。だから、学者だって悩む。爆発の瞬間はニュートンの法則でもアインシュタインの理論でも説明がつかないらしく、量子論(ミクロの物質理論)で説明をつけようとしているが、これが法則があってないような理論だから、悩んで悩んで、悩みぬいて…時々とんでもないことを言い出す人もいる。ホーキングなんて数学者は爆発以前の宇宙には虚時間が流れていたのである・・・などととてつもないことを言っている。実数と虚数…それと同じ実時間と虚時間と言う考え方だ。実生活で、しかも朝食を取りながら言ったら、周りの全員が朝食を噴き出してしまうくらいとてつもないことだ。これを真顔で堂々と学会で発表し、しかもそれを聞いた他の学者がそれを理解しようと必死になり、分かったつもりになって本を書く。虚数は実際には無い数字である。それと同じように虚時間だって「概念」であり、実存しないはずだ。宇宙についてはホーキングの一万分の一も知らない私ですら、この理論が変だと堂々と言えるのである。そしてそれに対しておそらく誰も(私が理解できるような)反論は出来ないと思う。虚時間を持ち出すまでも無く、第一、アインシュタインの相対性理論は本当に皆理解しているのか?・・・光速に近いスピードで1年間宇宙旅行してくると、帰ってきた時に本当に5000年経ってしまっているのか?。ビッグバン宇宙論の実証とされた3度Kの背景輻射熱は本当にビッグバンの証明なのか?・・・発見者が確か(ビッグバン理論の実証をしたと言うことで)ノーベル賞に輝いていると記憶しているが、本当の本当に宇宙は無から生じたのだろうか?・・・。光って一体何なんだろう・・・?光子という質量を伴ったもので、電波のような性質も併せ持っていて、しかもどんな状況の中でもスピードが一定(30万Km/s)で、それを超えるスピードはこの世には無い・・・理解できる?。「時間」って一体何なんだろう?・・・時間は概念ではないのか?本当に存在しているの?
 この世の何が面白いかと言って、分からないことほど面白いことは無い。分からないから興味も湧くのであって、分かってしまうと興味が失せるのはなにやら男女関係にも似ているが、これも真実のひとかけらである。そういう意味では確かに宇宙は無限の広がりの中に、無限の理論を生じさせ、無限の夢を見せてくれる。こんな素晴らしい興味の対象は無いわけである。これからも、おそらく死ぬまで、宇宙は私を楽しませ続けてくれるだろう。
 

「幸せになるためには」

 幸せになるのはそんなに難しくない、と思う。
 自分が幸せになるためには周りの人を幸せにすればいいのである。
 どうすれば周りの人が幸せになるのか?
 その人を自分が好きになればよいのだ。
 好きになるにはどうしたらいいか?
 その人のいいところを見ればいいのだ。
 他人と自分とのつながりが自分を幸せにする。人はけっして一人きりで幸せにはなれない。

 わがままで、自分のことしか考えない人は幸せになれない所以である。
 人間関係を図式にしてみよう。
 AさんとCさんは赤い部分で分かり合えている…と考えてもらっていい。CさんとBさんも別な部分で分かり合えているが、AさんとBさんは逆に接点が無い。Dさんは独りぼっちだ。人の価値観はもちろん多様で、こんな簡単な図では描けないだろうが、ひとつのモデルとして理解して欲しい。

 この図でいくと、皆となるべく分かり合えるようにするにはどうしたらいいのかが分かってくるだろう。
 そう、自分が大きくなればいいのである。CさんはAさんやBさんより大きい。だから両方ともに接点を持っていられるのだ。逆にAさんはもっと大きくなって、Cさんばかりじゃなく、Bさんとも分かり合えるようになって欲しいものだ。そしてDさんは可哀想である。誰からも理解されず、自分も相手を理解しない。この時Dさんに大事なのは、「相手が接点を持ってくれること」に期待するのじゃなくて、自分の心をもっと大きくして自分から相手を理解するようにしなければいけないということだ。大きな人間というのは多くの人々を含有する人のことである。図で言えばEさんである。Eさんは他の人々の誰とも理解しあえる大きな心をもっているのである。これを目指そうではないか。
 難しいかな?
 そんなに難しいとは思わない。
 色々な実体験と経験を積み、色々な立場を経験することだ。
 それにはマンネリを打破することだ。単調な毎日は人間を腐らせる。

もうひとつ言えば、自分を大切にする人。これは大切な原点だ。自分を大切にできない人は自分で自分を幸せにはできない。自分が幸せでない人が人を幸せにすることができるわけがない。

 

「コンプレックス」

 「コンプレックスの克服」という命題は、ある面で、そのまま人生の生き方であると断言できるだろう。誰にも子供の頃から思春期にかけて感じるコンプレックスが存在する。大人になってコンプレックスを感じるようになることもあろうが、突き詰めると思春期までのコンプレックスに行き着くことが多いだろう。また、コンプレックスの無い人間は皆無である。誰が見ても美人・・・こんな人で結構顔にコンプレックスを抱いていることも多い。要するにコンプレックスとは自己の内面の価値観と現実とのギャップであるから、もともと他人が判断することではないのである。

 ちょいと前の話になるが、ある60を過ぎた人と話をしていて、話が(確か)服のサイズの話になった時、突然彼は吐き捨てるようにこう言った。「まったく、背が低いってことはいいことはひとつも無い。人はみんな馬鹿にするし、喧嘩をしても負ける。今まで俺はどれだけ背が低いってことで損をしてきたか知れない・・・」と切り出すと、延々と今までの人生を愚痴り始めたのだ。そして彼は(彼の言う)つまらない人生をすべて自分の背の低さに結びつけた。私はそれを聞きながら・・・『あぁ、この人は背が低いという自分のコンプレックスをこの歳になるまで克服できなかったのだなぁ・・・』と思った。克服どころか、彼は身の回りに起こった悪いことは全て背が低いせいで起こったと考えることによって、問題を真正面から見ずに、逃げてきたのである。私の高校時代の親友にも背の低いのがいて、彼は当時それが最大のコンプレックスであったことは皆が知っていたが、それにいじけることなく、むしろそれをバネにして非常に存在感のある人間に育っている。もし彼がハンサムで背が高かったら・・・多分ここまでこれなかっただろうと思う。思うに、自己のコンプレックスに負けるか、勝つか…これが人生の分かれ道なのだ。

 私の先輩の実話を出して恐縮だが、この人は高校を卒業してある会社に入った。そこでその会社の重役の娘と恋に落ちた。そして娘の親に結婚の許しをもらいに行ったところ、「高卒では娘をやるわけにはいかん」とはっきり断られたそうな。彼の涙と悔しさと憤りは尋常ではなかったが、彼は結局これをバネに学歴コンプレックスを跳ね返し、数奇な運命を辿ったのち、今では一部上場企業の重役に収まっている。普通の高卒ではなれない役職であるのは誰でも分かるだろう。

 かく言う私にもいくつかのコンプレックスがあったし、今でもある。人に言えるものもあるし、言えないものもある。たとえば私は昔から体毛が薄く、それがけっこうなコンプレックスであった。私の中学高校時代はまた悪いことに加山雄三の人気が高かった頃だから、クラスの女子生徒など胸毛の生えた男らしい男に憧れていたから、いっそう私のコンプレックスもつのったわけだ。そのせいもあって、その頃から私は心の中でいつも「男らしい男になりたいなぁ」と感じ始めていた。そして長い年月を経てある時、男らしいということは見かけなどじゃなくて、内面の問題であり、しかも女性にしても胸毛の生えた女々しい男より、脛毛が無くても内面が男らしい男を好くのであると分かった時、そんなことにこだわっていた自分が少し吹っ切れたのである。といってすっかり吹っ切れたかというとそうでもない。なかなかコンプレックスとは厄介なものなのである。しかし、その私のコンプレックスは自分の中で「男らしさ」という問題を提起し、それを解決するための幾つかの方策や考え方を生んでくれたのである。つまりコンプレックスそのものより、そこから派生的に生まれる解決策にこそ意味があるのだ。そしてこれによって人間が成長するのだ。

 人間は誰でも、一つや二つ・・・いや、それ以上のコンプレックスを抱えて暮らしているはずだ。見方を変えると、コンプレックスを抱きはじめた時が、人生のスタートかもしれない。人はさまざまなコンプレックスを克服すべく、荒海に乗り出すのだ。そしていろいろな経験をつんだ後、自分のコンプレックスがそれまで感じていたほどにたいした問題じゃなかった、とか、あるいはそのコンプレックスを乗り越えてこそ生まれる達成感にしばしの幸福を味わうことになるのだ。だからわれわれは今自分の抱いているコンプレックスを「出来ない事」の言い訳に使ってはいけないのである。これはマイナスの発想で、こういう発想からは何も生まれないし、むしろますますダメになってゆく悪循環を生む。人生の真の喜びはコンプレックスの克服にあるといっても良いのだから、それをしっかり見つめ、どうやったら克服できるかを考えるのが先決だ。

損得勘定

 先日こんな話を聞いた。

 ある中年のオバハン。新車を買った。ちょっとしたディーラーのミスで一ヶ月点検通知がこなかったのに腹をたて、店長と販売員を呼びつけた。そして「買わせる時だけは何度も何度も来るくせに、買ったらナシのつぶて?」なんて厭味を言いながら、くどくど文句を言う。平身低頭の店長と販売員。その様子を見て、そのうちオバハンは自分で選んだカーナビにまで文句をつけ始めた。「こんなカーナビを選んだ覚えは無い!」と言い出し、もっと上級のナビに取り替えろと言いはじめた。差額は10万円である。差額を払う、払わない、言った言わぬの押し問答の末、結局立場の弱いディーラーが折れ、差額ゼロで上級のカーナビに変わったそうな。

 この手の話は案外よくある話である。立場の弱いものを脅し、金品を巻き上げる恐喝とさほど変わりが無いのだが、本人はそんなつもりも無く、むしろ言いたいことを言ってしかも得した気になっているのだから始末が悪い。私はここまではやらないぞ・・・という人も多いだろうが、何かしら他人より僅かでも得をしたいと考えたことがある人も少なくないだろう。たとえば何かを買う段になると必ず知人友人のつてを辿って「人より安く」買いたいと思っている人。その相手が親友とかよく知った人ならともかく、普段はほとんど口をきかない人であっても平然と「安くしてよ!」と言う。そして安く買ったことを周りの人に得意げに吹聴する・・・。そんな人が最初の話のオバハンとさほど変わりが無いような気がするのは私だけだろうか?

 私の損得勘定でいくと、このオバハンはこの件で完全に「損」をしている。こんなことでもし「10万円得をした」と思っているのなら大間違いも甚だしい。第一に、ディーラーから頭を下げにやってきた二人・・・この二人は絶対このオバハンが嫌いになっただろう。そして多分帰りの車の中で、「あの業突く張りのババアが・・・」と散々悪口を叩いたに違いない。そして そこに居合わせた人やその話を聞いた人・・・この私も含めて何人が、このオバハンのことを嫌いになっている。「すごいね、やったね!」なんて思う人もいるのかもしれないが、ま、大半はこのオバハンを軽蔑することはあっても称えることは無い。つまり、このオバハンは自分の人間としての価値を10万円で売ったことになるのだ。その損得の差が、とてつもなく大きいということは誰の目にも明らかだろう。

持ちつもたれつ

 この世はすべて「持ちつもたれつ」の関係にある。人間においてはたとえば、男と女、こんなのも典型的な「持ちつもたれつ」の関係である。男には男の役割があり、女には女の役割がある。それぞれがいいところと悪いところを持ちながら、融和しているのがこの関係だ。だからどちらが上とか下とか、偉いとか偉くないとか、・・・こんな言い方や考え方をするのは確かに間違っている。それぞれ役割があって生きているのだから、どちらが欠けても相手は存続できない。そして私がこんなことを言うと、「そんなこと分かっているよ!」と多分あなたは言うだろう。「当たり前じゃないか!」と。

 ところがこのことが分かっていない人が余りにも多いので、私はここに書くのである。仮に上記の男女関係については当然だと考えている人でも、たとえば会社でふんぞり返って偉そうに部下を怒鳴りつけている人はいませんか?。もしくはたとえば昼飯を食べに行って、いかにも「オレはここに飯を食いに来てやっているんだ」とばかりに店員のミスを詰ったり、見下したりする人はいませんか?。 こういう人が「持ちつもたれつ」の関係を分かっているとは思えません。上司と部下、店(店員)と客・・・これらも男と女と同様、「持ちつもたれつ」の関係にあるのではないでしょうか?

 働く部下がいて初めて、それらを取りまとめる役割の上司が存在できるのであって、偉い上司がいるから部下が存在できるのではないのです。店にしても、もし、その店が無かったらあなたはどこで昼食をとるのでしょうか。『他の店に行くからいいよ!』っていう問題を論議しているのではありません。店の選択に関しては自分の気に入った店に行けばいいでしょう。問題は、店と客という定義の問題です。昼食を食べられるということは、実はこれが大変便利なことなのです。もし店というものがこの世に全く無かったなら、我々は朝昼晩と、三度の食事を自宅とか弁当で摂らねばならないのだから、これは大変便利なことだと・・・まず思わねばならない。こう言うとある人はこう反論するだろう。『だって店は商売でやってるんでしょ?』つまり金を取っているのだから、逆に言えば自分が金を払う立場にあるのだから、立場が強いのは自分のほうだ・・・と。ところがこれがまた間違った考え方なのである。

 金を支払うのは、利便性に対する対価として支払っているのですよね?。食事の場合は利便性だけではないけれど、要するに自己の満足度に合わせて相応の対価を支払っている・・・と言うのが正しい考え方ではないでしょうか。だったら、自分が金を払う立場だから偉いとか、何を言っても通る・・・とか考えるのはやっぱりおかしいことですよね。上の項に書いたオバハンの言動がいかに間違ったものかということが、ここでも分かるのである。『車を買ってやった』なんて威張るなかれ、もし車が無かったら、あんたは自分の足で歩いて通勤しなきゃならないんですよ。もちろん店の人がお客を大切に思い、遜った態度を見せるということは、これまた別 の話であるけれど。

 こうやって「持ちつもたれつ」の関係を考えると、いろんなことに対する見方が変わってくるかもしれないですね。この世は面白いほど対極です。白があって黒がある。悪があって善がある。まるで光があるから陰ができるように、さらに言えば電子と陽子のように、すべてが+と−、凸と凹で出来ていて「持ちつもたれつ」の関係を築いているのです。ここにはどちらがいいとか悪いとかという定義は無く、むしろどちらが欠けてもこの世のすべてが崩壊するという共存観念しか存在しません。なんだか話が哲学的になってきましたが(笑)・・・ま、食事が終わって店を出る時、今まで偉そうに『おい、勘定!』とやっていたのが、『ご馳走様、ありがとう・・・』なんて言葉に変わったりしたらいいな・・・と思いましてね、ちょっと書いたんです。

器量一杯

 先日何気なくテレビを見ていたら、とある山里の老夫婦の話を放映していた。そのお婆さんは若い頃から花が好きで、家の周りに桜をはじめ色々な木や花を植えてきた。そして今ではそこは季節になると通行人が足を止めて眺めたりするほど美しい景色となった。今でも時々体調を崩したり、入院したりしながらも夫婦ともども手入れを続けている・・・といったほのぼのとした心温まる話であった。そして私が感動したのは、最後にそのお婆さんの言ったひとことである。

 「花は、いいですねぇ・・・毎年毎年忘れずに、器量一杯花を咲かせてくれる・・・それが楽しくて・・・」

 私はその言葉の中の、「器量一杯」という表現に、大げさに言えば頭を殴られたような衝撃を受けたのである。ああ、なんと素晴らしい表現だろう!!。このお婆さんは私の知りたかったことをひと言で教えてくれたのである。

 私は以前から何故自然は美しく感じられるのだろうかと考えていた。一見妙な命題だが、私は自然の美しさというものの本質は一体どういうところにあるのかを自分なりに結論付けようとしていたのである。言い方を変えれば、自然にある木だとか花だとか動物だとか・・・それが我々人間とどう違うのか・・・簡単に言えば人の行動と、たとえば花の行動と何がどう違うのか?。そんなことを漠然と考えて、考えあぐねていたところに、このお婆さんの言葉が突然耳に入ってきたと思ってもらえば良い。

 花は、「器量一杯に」咲いているから美しく感じられるのだ。花だけではなく、自然界のあらゆる植物も動物も、考えてみれば一つも手抜きをすることなく、それぞれの持つ器量の中で精一杯生きているから美しいと感じられるのだ。そこにはなんの誇張も背伸びも無く、と言って卑下も謙遜も無い。ありのまま、堂々と存在しているのである。では私は?・・・私は自分の器量一杯に生きているか?。私だけでなく、人間って皆器量一杯生きているか?。多分、人は持っている能力の何分の一かでしか生きていないのではないだろうか。・・・そう思い至って人間を見ると、嗚呼、なんたる不様。人はダラけて太り、そのくせ食い物も余らせ、アレが嫌だコレが嫌だと我侭を言い、ついでに人の悪口も言い、笑いながら嘘もつく。逆に自然というのは無駄が無く、我侭も言わず、悪口はもちろん嘘も言わない・・・その上天命に従い、自分の持つ能力一杯に努力しながら生き抜いているではないか。そればかりか、見る人に感動まで与えているではないか!。これは実に凄いことである。だから人は、自然はやっぱりイイよなぁ・・・とため息をつくのである。このため息には器量一杯に生きる自然に対する憧憬が含まれているのである。こうやって考えると・・・人はこの地球上で一体何をやってきたのか。なにも文句を言わないのをいいことに、自然に対してベッタリ甘えながら、しかもそれを破壊しながら・・・生きてきたのではないか?。自然と人間の生き方の違い、その差はあまりにも大きく、悲しい。何故?・・・多分人は自分の天命を知らないのであろう。

生きるということ

 いよいよ根本的な命題に突入しましたね(笑)。生きるということの意味は、逆説的に考えると、死とはどういうことかを定義しないと分からないはずであるが、そのどちらも曖昧模糊としていて、誰もがすっきりと説明できることではない。かつて多くの宗教や聖人が説いた生死観もいざ自分が現実的に捉えようとすると全てを受け入れるほどの説得力に今ひとつ欠けている。考えてみれば当たり前の話だ。今生きている人は経験として死んだことが無いのである。

 しかし自分が死んだことは無くても、毎日人が死んでいることを我々は知っている。また、親族や知人などの葬式に出向き、直接死に向き合ったことは誰にでもあるのだから、死というものがどういうものかということは知っている。そしてたいていの場合ここで意見、と言うか、私見が大きく二つに分かれる。すなわち「死」とは肉体からの霊の離脱である、とする人と、肉体(脳)の死がすなわち「死」であり、それ以上でもそれ以下でもない、とする人に分かれるのだ。言い方を変えれば「死後の世界」があるかないかという問題である。求道的な人々はそれぞれの立場で立証を試みているが、結局は解決を得ない。自分が死なないと分からないからである。いや、後者の立場の人なら死んでも分からないと言うかもしれない。だからこういうことは直感というか信念というか、つまりは自分が今感じる「死」に対する概念を漠然と信じるしかないのである。これが大前提だ。

 その上で、もしも死というものが人間に訪れなかったらどういうことになるだろうか・・・と考えると面白い。生きるということの対極に位置している死。それがもし無いとしたら、人間はどう生きるか・・・と想像してみるのである。まずもって私が今力を入れているスポーツジム通い・・・この行動の意味がまず失われる。死ぬまでは元気でいたい・・・という思いでやっているのだが、死なないなら身体を鍛えてもなんだかしょうがないよね。勉強?これだってあまり急いでやる必要も無いみたいだし、食事だってきちんと食わなくてもとりたてて差し支えないし、だいいち子孫繁栄を目的とする生殖行為自体すら無意味にもなるよなぁ・・・。ちょっと待てよ???これは変だ・・・死があるからこそ、生きる意味があるってことか?・・・そうなのだ。ここが第一のポイントなのだ。人は、いや、この地球上の生物はすべていつか死を迎えることになっている。地球どころか、太陽や惑星、恒星、星団、それら我々の住む宇宙そのものがいつかは死を迎えるのだ。だからそれぞれの、その限られた時間の中で何かを行うということ・・・これが生の意味である。この中で、「何かを行う」ということが、大切なところである。

 自分が死んだら「無」に帰すのか・・・。これが次に問題になる。この世に霊的な体験をした人は数多くいる。そして仮に体験しなくても、その手の話を読んだり聞いたりすることは出来る。だからこのことは実際、信ずるか信じないかということに尽きる。ちなみに私は霊を信じている。と言うより、感じている。今この文章をキーボードで打っているのは私自身だが、それをさせているののが単に私の頭脳だけとは感じられないのだ。これは直感である。頭脳は「考える」ということを行う器官みたいなもので、その器官は私の肉体以外の「私自身」から発せられた命令みたいなものを受け取っているだけ・・・そんな感じがするのである。つまり言いかえると私が仮に死んでも「私自身」までなくなってしまうとは、どうしても考えられない。では死んでもなくならない私自身とは一体ナニモノなのだろう?。この実体は私も分からない。分からないがそう感じている。で、そう感じている(た)人々がそれを「霊」と名づけたのであると、漠然と理解しているのである。今の医学や科学は霊を認めていない。証明が無いからである。しかし証明が無いからそれが存在しないとは、過去のいろいろな事例から断言することは出来ない。霊に限らず、この世には説明できない不思議なことは一杯あるのだ。

 話は変わるが、「死刑」についてどう思うか・・・この設問に対する答えは上に書いた「霊」を信じるか信じないかということに非常に重要に関わってくる、と思う。たとえば殺人犯を死刑にする・・・。これは犯人をこの世からなくしてしまう、という発想であるのは誰でも分かるだろう。死が完全なる抹殺であるなら、これが正解かもしれない。しかし霊というものを信じるなら、結果は反対になる。人を殺してしまうような低級な霊は、改心を持って罪を贖うことなく肉体を抹消させられれば・・・再び同じ程度の霊として生まれ変わり、同じようなことをまた繰り返してしまうのではないだろうか。そうであるなら、人間として考え、向上していくことが出来るうちに、贖罪し、改心させる必要があるのではないか?。死刑については賛成論と反対論があるが、それも死というものに対する認識ひとつでこのように180度変わってしまうものなのだ。

 左記に「天命」と書いたが、私はなにやら漠然と・・・この天命について考え始めている。何か目的なり意思がないとこの世は存在しないはずである。この意味が分かるだろうか。それは単に個人が幸せになるとか要求が満たされるとかのレベルではなく、なぜ自分も含めたこの宇宙全てがここに存在しているのか、という命題である。過去の聖人はこの命題に対してそれなりの結論、もしくは解決の糸口を発見した。それを神の存在と言った人もいたし、神はいないと言った人もいたし、どんな神様も結局は本を糺せば同じと言った人もいた。しかしそのソルーションに照らした生き方として、誰もがある意味で同じようなことを言っているのは何故か。そこにひとつの道があると思うことは、多分正解に近いだろうと感じるのである。

 そして最終的に一番大切なことは、自分がどうやって生きてゆくかということにある。ここに結実しないと、思考も意味が無い。その際大切なポイントは、今自分の目が見開いているからこの世界があるのだという認識の上に立つことだ。目を閉じてしまえばこの世界自体が消滅する。つまり今までも、これからも、いつだって自分があるからこの世が存在しているのだということを大前提に考えていくのだ。もちろん一般に言われているような自己中心的、という意味ではない。自分が世界の真ん中にいるのだという認識のことを言っているのである。自分の心が楽しければ、周りも楽しくなり、悲しければ回りも悲しく映るのだ。だからいろいろなことを勉強し、実践し、時には悲しみ、楽しみ、奇を衒い、真面目に、不真面目に・・・いろんな角度で体験したことを自己の霊に移してやる・・・そうやって「自分自身=霊」を高めてゆくことに喜びを見出してゆけるようになれば、こいつはとても素晴らしいことじゃないかと思う・・・いや、感じるのである。

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