生きるということ
いよいよ根本的な命題に突入しましたね(笑)。生きるということの意味は、逆説的に考えると、死とはどういうことかを定義しないと分からないはずであるが、そのどちらも曖昧模糊としていて、誰もがすっきりと説明できることではない。かつて多くの宗教や聖人が説いた生死観もいざ自分が現実的に捉えようとすると全てを受け入れるほどの説得力に今ひとつ欠けている。考えてみれば当たり前の話だ。今生きている人は経験として死んだことが無いのである。
しかし自分が死んだことは無くても、毎日人が死んでいることを我々は知っている。また、親族や知人などの葬式に出向き、直接死に向き合ったことは誰にでもあるのだから、死というものがどういうものかということは知っている。そしてたいていの場合ここで意見、と言うか、私見が大きく二つに分かれる。すなわち「死」とは肉体からの霊の離脱である、とする人と、肉体(脳)の死がすなわち「死」であり、それ以上でもそれ以下でもない、とする人に分かれるのだ。言い方を変えれば「死後の世界」があるかないかという問題である。求道的な人々はそれぞれの立場で立証を試みているが、結局は解決を得ない。自分が死なないと分からないからである。いや、後者の立場の人なら死んでも分からないと言うかもしれない。だからこういうことは直感というか信念というか、つまりは自分が今感じる「死」に対する概念を漠然と信じるしかないのである。これが大前提だ。
その上で、もしも死というものが人間に訪れなかったらどういうことになるだろうか・・・と考えると面白い。生きるということの対極に位置している死。それがもし無いとしたら、人間はどう生きるか・・・と想像してみるのである。まずもって私が今力を入れているスポーツジム通い・・・この行動の意味がまず失われる。死ぬまでは元気でいたい・・・という思いでやっているのだが、死なないなら身体を鍛えてもなんだかしょうがないよね。勉強?これだってあまり急いでやる必要も無いみたいだし、食事だってきちんと食わなくてもとりたてて差し支えないし、だいいち子孫繁栄を目的とする生殖行為自体すら無意味にもなるよなぁ・・・。ちょっと待てよ???これは変だ・・・死があるからこそ、生きる意味があるってことか?・・・そうなのだ。ここが第一のポイントなのだ。人は、いや、この地球上の生物はすべていつか死を迎えることになっている。地球どころか、太陽や惑星、恒星、星団、それら我々の住む宇宙そのものがいつかは死を迎えるのだ。だからそれぞれの、その限られた時間の中で何かを行うということ・・・これが生の意味である。この中で、「何かを行う」ということが、大切なところである。
自分が死んだら「無」に帰すのか・・・。これが次に問題になる。この世に霊的な体験をした人は数多くいる。そして仮に体験しなくても、その手の話を読んだり聞いたりすることは出来る。だからこのことは実際、信ずるか信じないかということに尽きる。ちなみに私は霊を信じている。と言うより、感じている。今この文章をキーボードで打っているのは私自身だが、それをさせているののが単に私の頭脳だけとは感じられないのだ。これは直感である。頭脳は「考える」ということを行う器官みたいなもので、その器官は私の肉体以外の「私自身」から発せられた命令みたいなものを受け取っているだけ・・・そんな感じがするのである。つまり言いかえると私が仮に死んでも「私自身」までなくなってしまうとは、どうしても考えられない。では死んでもなくならない私自身とは一体ナニモノなのだろう?。この実体は私も分からない。分からないがそう感じている。で、そう感じている(た)人々がそれを「霊」と名づけたのであると、漠然と理解しているのである。今の医学や科学は霊を認めていない。証明が無いからである。しかし証明が無いからそれが存在しないとは、過去のいろいろな事例から断言することは出来ない。霊に限らず、この世には説明できない不思議なことは一杯あるのだ。
話は変わるが、「死刑」についてどう思うか・・・この設問に対する答えは上に書いた「霊」を信じるか信じないかということに非常に重要に関わってくる、と思う。たとえば殺人犯を死刑にする・・・。これは犯人をこの世からなくしてしまう、という発想であるのは誰でも分かるだろう。死が完全なる抹殺であるなら、これが正解かもしれない。しかし霊というものを信じるなら、結果は反対になる。人を殺してしまうような低級な霊は、改心を持って罪を贖うことなく肉体を抹消させられれば・・・再び同じ程度の霊として生まれ変わり、同じようなことをまた繰り返してしまうのではないだろうか。そうであるなら、人間として考え、向上していくことが出来るうちに、贖罪し、改心させる必要があるのではないか?。死刑については賛成論と反対論があるが、それも死というものに対する認識ひとつでこのように180度変わってしまうものなのだ。
左記に「天命」と書いたが、私はなにやら漠然と・・・この天命について考え始めている。何か目的なり意思がないとこの世は存在しないはずである。この意味が分かるだろうか。それは単に個人が幸せになるとか要求が満たされるとかのレベルではなく、なぜ自分も含めたこの宇宙全てがここに存在しているのか、という命題である。過去の聖人はこの命題に対してそれなりの結論、もしくは解決の糸口を発見した。それを神の存在と言った人もいたし、神はいないと言った人もいたし、どんな神様も結局は本を糺せば同じと言った人もいた。しかしそのソルーションに照らした生き方として、誰もがある意味で同じようなことを言っているのは何故か。そこにひとつの道があると思うことは、多分正解に近いだろうと感じるのである。
そして最終的に一番大切なことは、自分がどうやって生きてゆくかということにある。ここに結実しないと、思考も意味が無い。その際大切なポイントは、今自分の目が見開いているからこの世界があるのだという認識の上に立つことだ。目を閉じてしまえばこの世界自体が消滅する。つまり今までも、これからも、いつだって自分があるからこの世が存在しているのだということを大前提に考えていくのだ。もちろん一般に言われているような自己中心的、という意味ではない。自分が世界の真ん中にいるのだという認識のことを言っているのである。自分の心が楽しければ、周りも楽しくなり、悲しければ回りも悲しく映るのだ。だからいろいろなことを勉強し、実践し、時には悲しみ、楽しみ、奇を衒い、真面目に、不真面目に・・・いろんな角度で体験したことを自己の霊に移してやる・・・そうやって「自分自身=霊」を高めてゆくことに喜びを見出してゆけるようになれば、こいつはとても素晴らしいことじゃないかと思う・・・いや、感じるのである。