この世には悪い奴がうようよしている。たとえばモノを盗む奴、人を騙す奴、欲望のために人を殺す奴・・・泥棒、詐欺、殺人。『性犯罪』というカテゴリーもあるが、犯罪原因を辿ってみると、以外に性的コンプレックスがその背景にあったりして、根は深い。
もっと厄介な『悪』も存在する。これらの犯罪は、その時点で『悪』どころかむしろ『善』として社会に受け入れられることさえあるのだから厄介だ。それはたとえば『戦争』であり、『公害』『薬害』などである。また自然環境を壊し、長い目で見てこの地球をダメにするあらゆる事柄も、『悪』と呼んでいいだろう。それらは組織的に行われる場合が多く、そういう意味ではむしろ個人的悪よりたちが悪い。単なる『失政』では片付かない。
そしてここで私が書きたいのは、人間の根本に潜む『悪』についてなのだ。この『悪』が一番問題が大きいと思うのだ。
悪の無い世界で、仲良く平等に暮らしたいと誰もが思っているだろう。誰だって基本的にはそうに違いない。しかし歴史を振り返ってもそんな時代は無い。有史以来、人類は世界中でそんな時代をひと時も経験していないし、個人史を振り返ってみてもそうだろう。周りがみんな『イイヤツ』で何らストレスを感じないで死んでいった人はほとんどいない筈だ。このことをよく考えてみよう。
自分が生きてきたように、人も生きている。自分が感じるように、人も感じる。自分を守ろうとすれば、人も守る。そして人より自分がいい思いをしようとすれば、人だってもっといい思いをしようとする。人間の根本は『エゴ』によって支配されているのかもしれない。そして問題は、ほとんどの人が自分を間違っていないと思っていることにある。人間を国に置き換えてみれば、国家間の戦争がなんとなく分かる。みないろいろな理由で喧嘩をしたり言い争いをしたりしているが、根本には「自分がよければ」というエゴが隠れていることが分かる。もちろんそれがいいとか悪いとか言っているのではない。
しかし、『この世に悪を作り出しているのは自分なのだ。』と思ったことは無いだろうか。私は何度かある。私はもちろん殺人は犯したことが無いし、喧嘩すらほとんどしたことが無い。しかしいろんな場面で、自分のエゴを感じる時がよくある。個人的なことでさえそう感じるのだから、『会社』として物事を考えた時はもっとエゴイズムに走らざるをえない。抽象的な言い方で分かりにくいかもしれないが、想像していただきたい。あなたが想像する事柄が、すなわち私がここに書きたいことだと思ってもらっていい。そこには若干の程度とやり方の違いがあるだけだ。
だから、ある人が犯罪に走るのは、性格上の問題であって、実は考えていることは自分と大して変わらないのじゃないのか?、と思ったりもする。逆に行動が違うだけで考えていることが同じであれば、ある時、何かの拍子に私だって犯罪者になる可能性があるということだ。
問題は、思考にあるのか行動にあるのか。・・・長く人間をやっていると分かってくるのだが、行動だけを捉えてあれこれ矯正しても無駄で、思考があって行動があるのだから、その思考を変えないと人間を変えられないのだ。自分の心に『悪』を生み出さないようにしなければ、自分は本当には変わらない。
逆にエゴがないと生き残れないじゃないか・・・と思う人もいるかもしれない。そうなのだ。それが現実かもしれない。つまり、生きてゆく上で、ひとつの食べ物を分かち合えば、1日しか生きられない。自分一人が食えば、2日生きられる…。案外そんなところが人間、いや、動物としての人間の本質かもしれないし、そしてそれは間違っているとか正しいとか結論の出ない話なのかも知れない。しかしエゴを通すとそれが相手にとってプレッシャーとなり、ストレスを感じ、幸せでなくなるとすれば、どこかでやはり我慢しなければならないのだろう。それはつまり、生きているだけで、あるいは突き詰めると『自分が生きようとするだけで他人には迷惑』ということになる可能性だってある。
話が難しくなってきた。私は何が言いたいのだろう…。堂々巡りは私のもっとも得意とするところであるが…。こういう時は話を脱線させよう。
ここのところ映画をよく見るが、昔ホラー系のものも好んで見た。そんな残酷な映画を見たいと思う自分を分析してみると、私は人間というものがどこまで残酷、残虐になれるかということに興味があるのだと最近になって分かった。たとえ映画として作ったにせよ、作った人間にそんな意識が無いなら、そんな映画は出来ないはずだ。昔『セブン』という映画があった。私はこの映画を今までに無い映画としてある意味で評価した。映画というのは大体において、どんなに残虐なものでも最後は主人公が助かったり、悪いやつが死んだりして一件落着となるのが決まり相場だ。そうでないと観客の後味が悪くなる。だから最後は「ホッ」とさせるのが常識である。しかしこの『セブン』は違った。最後の最後まで『救い』というものが無かった。きっとこの作者は人間と言うものの本質を言いたかったのではないか?。悪を追求してゆくと、結局人間は、誰も救われない・・・。
目を転じると、人間はもちろん素晴らしい生き物であり、この地球には多様な幸せが一杯落ちていて、だれでも拾うことが出来る。愛する人がいて、子供がいて、夢とか目標に向かってさえいれば誰でも喜びを掴むことが出来る。しかしその喜びとは「金というものについて」でも書いたように、『心のありよう』であって、決して物質ではないということだ。まず第一に、物質が絡んでくると、そこに『悪』が生まれてくるような気がしてならないのだ。自分の心に潜む『悪』を駆逐するためには、必要最低限の生活を甘受しなければならないのかもしれない。何度もくどいようだが、物質(=金)はこの地球上で、限られた量しか存在しない。然るに、人間の欲望には限度というものが無い。だから奪い合いが起き、殺しあう羽目になるのだ。
『相手がいなくなればいい…』と思うことは無いか…。会社でいえば競争相手の他社、あるいは一人の恋人を奪い合っている相手…。これがエゴだと分かっていても、こういう思いは一度や二度ならず、自分の頭をよぎったことがあるはずだ。
たとえばあらゆる競争相手に勝って勝って勝ちまくり、絶対的勝利をモノにするなんてことは現実的にはあり得ないのに、人間は心の底で、それを望む。企業などがエゴ剥き出しに経済戦争をあちこちで起しているのも、この感覚だ。私にははっきり言って見苦しく見える。もちろん『負けっぱなし』もつまらないが、ある所で勝ち、ある所では負け、またある所では引き分ける…。人生観にもいろいろあるだろうが、私にはこれが自然で当たり前に見える。
『悪』は自らが自らの心の中で作り出す。だからこの世から本当に悪をなくすには、自分の心が『悪』を作り出さないようにすることだ。幸せになるための第一段階かもしれない。