カオリタケ D

 こんなに夜遅くごめんなさい…、と彼女は前置きしてから、あれから私が何をしていたのかを訊いた。彼女の声は妙に上ずり、なんだか言いたいことを必死に押さえているような感じであった。私は起き抜けということもあり、ぼんやりした頭をハッキリさせるために煙草に火を付けてから、あれから山本と田村の通夜に行って、帰ってからテレビを見ながらウイスキーを飲んでいたら寝てしまったのだと言った。

 寝たの?、と彼女がまるで尋問するように聞き返した瞬間、間抜けな私はことの重大性に気が付いた。そう、私はすっかり眠ってしまっていたのだ。そして何事も起こらなかった。私の沈黙の理由が分かったとみえ、彼女は、やっぱり…、と呟いた。そして突然、冷蔵庫の中を見て、と言った。私は一瞬彼女の言った言葉の意味が分からなかったが、もう一度「冷蔵庫を見て」と命令口調で言われて、仕方なく受話器を置き、台所に向かった。

 冷蔵庫の扉を開ける。…特別何も無い。バターやらチーズ、飲めるのか飲めないのか分からぬ牛乳。塩鮭の切り身がすっかり干上がっている。私は彼女が何を言っているのか分からないまま、下に付いている引き出しを開けた。その途端、私は悲鳴を上げそうになり、慌てて息を呑んだ。そこにはラップに包まれたカオリタケがキャベツと蒟蒻を入れてある袋の上に、ちょこんと乗っかっているではないか!。          

 「どうして…」

 私は震える指でカオリタケをつまみ上げ、見た。間違いなくそれは私自身がラップに包んでしまっておいた幼菌に間違いなかった。…そう、昨日の夢の中で…。

 カオリタケを左手に持ち、受話器に向かってカオリタケが冷蔵庫の中にあった、どうして君にはそれが分かったんだ…と、私は言った。もう、てんで私には何がなんだか分からなかった。彼女も自分の推理が当たったことに驚いているのか、しばらく無言の時間が流れた。そしてそのあと彼女は、これから私の家に来てもいいかと尋ねた。見せたい本があると言う。その中にあなたが言ってるカオリタケのようなキノコのことが書いてあるから…、と彼女は言った。私は勿論いいと言った。じゃあこれからすぐに出かけますから、と彼女は言い、これでキノコが全部見つかったわね…と付け足して、電話を切った。

 受話器を置いた私はがっくりとソファーにもたれかかり、テーブルに置いたカオリタケを見た。なぜここにカオリタケがあるのだ?。このカオリタケは昨日の夜に、つまり夢(とりあえず夢と表現しておこう…)の中で採り、冷蔵庫にしまったものだ。今日ここにそのカオリタケが存在するなら、なぜうどんの器がここに無いのだ?。夢の中で私はカオリタケのうどんを食べ、箸を突っ込んだ器を台所の流しに放り込んだまま眠たくなって寝てしまったのだ…。おかしいではないか。

 彼女はこれでカオリタケが全部見つかった、と言ったが、どういう意味だろう。どうやら彼女はカオリタケに対して何か解釈を得たようだが、電話では何も教えてくれなかった。そしてこれからある本を持ってここにやってくる。一人住いの男の家に、女が深夜訪問するというのは常識外れには違いないが、彼女の話しぶりにはそんな常識には構っていられない何かがあった。私にしてみても、そんなことはどうでも良かった。それより何より、カオリタケの正体を突き止めることが先決なのである。冷蔵庫から出して温度が上がったせいか、カオリタケはまたもやラップを通して芳しい香りを立ち上らせ始めていた。

私の頭はもうすでにパンク状態であった。何も考えられなかった。私はもう何もかも彼女に任せるつもりだった。彼女は聡明だ。そして何より、当事者ではない。冷静に事態を把握してくれるだろう…。私はソファーにもたれたまま、彼女のやってくるのを待った。

 やがて車が砂利を踏む音が聞こえ、私は玄関を開けた。やや冷たくなった夜気が頬に心地よい。玄関に立った彼女は、一冊の黄ばんだ本を携えていた。彼女の顔には、昼に見せていた和らいだ微笑は無かった。逆に微かな緊張感さえ漂っているように感じられた。私は彼女を家の中に招き入れた。

 お茶でも入れようか…、と台所に向かう私を彼女は手を振って制した。そしてソファーテーブルに置かれたカオリタケを手にとって、ラップを外していいかと聞いた。私が頷くのを見て、彼女は丁寧にラップを外し、これが問題のキノコね…と言いながら感慨深げに眺め始めた。なんて素敵な香り…と彼女はカオリタケに鼻孔を寄せながら呟いて、私に振り向き、これなら食べたくなるのは当たり前よね、と言った。そしてソファーテーブルの上に置いた本を取り上げ、ちょうど今日の昼にメモを私に渡した時のように、私の目をじっと見つめながらそれを私に手渡した。

 その本は、分厚い和紙を表紙にした、厚さ一センチほどの小冊子で、細紐で袋綴じにされたかなり古い本であった。表紙には『茸奇譚』と表題があり、小野何某の記名が墨筆で書かれていた。彼女の祖父か曽祖父が明治時代に手に入れたものだと、彼女は説明した。亡くなった父の蔵書の中にあったものだが、昔、ずっと若い頃にこの本の表紙を見た記憶が私の頭に残っていて、それを今日突然思い出して、押入の奥から探し出したのよ、と言いながら彼女は私の手から本を取り上げ、頁を捲り、そこを開いたまま、再び同じように私の目を見つめながら手渡した。

 そこには『朧愾茸』という見出しが書かれており、(らうきたけ)と振り仮名が振ってあった。「ろうきたけ」と読むのだ。私は声に出して読み始めた。

  『醴泉…湧き出づる山中に幹…祠となりし古…霊木あり。…』私はたどたどしく読み始めたが、すぐに彼女に読んでもらえないだろうか…と頼んだ。彼女は頷き、再び本を手に取り、私にも分かるように訳しながら読み始めた。

 「醴泉湧き出づる山中に、幹が祠となった古い霊木があった。水汲みの翁がふと中を見ると、今まで見たこともない傘の赤い茸が祠の中に幾本か生えていた。香り頗る佳しとて全部家に持ち帰り、妻とともに鍋に入れて喰えり…食べた。気味甘にして香り佳し…すごくおいしかった。その時鍋には二本の茸が残っていた。そしてすぐに二人とも眠たくなり寝てしまった。そして不思議な夢を見た。それは夢であって夢でないような、奇怪窮まりない夢であった。二人は一日を夢の中で過ごし…いい、ここが大事なところよ」…と彼女は言った。

 「夢の中で、夜、鍋に残りし二本の茸を一本ずつ食べた途端、また眠たくなり…目を覚ますと、なんと…その日に昨夜夢で見た出来事次々に詳らかに起こり、それを伝えし翁とその妻に、村中大騒ぎになった。例えば雨が降りそうにもない晴天の空が夕刻俄に掻き曇り、大雨が降ることを予言したり、狩人の甚介が鹿と兎を何頭仕留めるだとか…いちいち言い当てり…と言うわけよ。」

 私は彼女が読むのを聞きながら、自分の体が奇妙に痺れ、小刻みに震えていることに気が付いていた。この茸は私が発見したカオリタケに間違い無い。私はこの茸をすでに食べた人間がいることに強いショックを受けていた。そして私は自分がただ一つのことだけを知りたがっていることにも同時に気付いていた。

 「いったい二人は…どうなったんだ…」

 彼女の顔に、一瞬の狼狽が走ったのを私は見逃さなかった。ちょっと待って…と彼女は私を制するような口調で言いながら、続きを読み始めた。

 「…村中ですっかり評判になった翁はその日の夜、村人の前で茸の話をした。そしてこの話は不思議だが、実はもっと不思議なことがあると皆に語った。この茸が今朝起きた時に、鍋の中に見当たらなかったのだと言うのである。確か二本の茸が鍋に残っていたはずが、今朝には無くなっていたと…。」

 「食べたんだ…そう、夢の中で食べてしまったから、目を覚ました時に無くなっていたんだ…」

 私は思わず言った。そして口に出した途端、カオリタケの本数の謎が一瞬に氷解した。

「これで全部見つかったわね。」と言う彼女の言葉の意味が…。

彼女は大きな瞳で私の目を見つめ、頷いた。彼女はとっくにそれに気が付いていたのだ。だからこそ冷蔵庫のカオリタケを発見できたのだ。つまりこういうことだ…と、私は自分自身で確認する意味で彼女に自分の考えを伝えた。

 つまり、私はカオリタケを五本発見し、その日の夜に採ってきた二本のうちの一本を焼いて食べた。これで残りが四本。夢を見て、その中でさらに二本を採り、一本を杉原に渡し、先日の残りの一本をうどんで食べた。つまりその時点で祠に残る幼菌と私の手元に一本で、残り二本。次の日に三本あると思っていたカオリタケが幼菌一本だけになっていたのはこのためだ。私は盗られたと思っていたが、何のことはない、自分で採っていたのだ。そして幼菌を採り、家に持ち帰って冷蔵庫にしまい込み、手元の一本を食べて今日の日を迎えた時、残るのは前日に採った幼菌一本だけになっていた。

 そう…、彼女は頷きながら付け足した。もしあなたがうどんで食べたカオリタケが胞子紋を採ったほうのカオリタケだったなら…、あなたは昨日の時点でそのことに気が付いたかも知れなかった…と。そして彼女はこう断言した。

 「カオリタケ…いえ、ロウキタケは現実と夢の両方の世界にわたって存在するのだと思うわ…。だからこそ、それを食べると現実と夢を行ったり来たり出来るのよ。」

 なるほど、と私は思った。カオリタケを食べた人間が両方の世界を、まるでポイントで別れたレールのように現実だと認識するのは、カオリタケが両方の世界に実在するからなのだ。

 私は彼女に続きを読んでくれと頼んだ。

鍋に入れた朧愾茸が無くなっていたのは分かった…分かったから次に進んでくれ、それで二人はどうなったのだ…と。彼女は意を決したように視線を本に戻し、口読を続けた。

 「不思議なことがあるものだと、皆が感心するやら気味悪がっているうちに何日かが過ぎた。その間に翁は自分の体験を筆記し、茸に名前を付けた。それがこの『朧愾茸』という名前。そしてまた、村中で朧愾茸狩りを幾度か行なったが、ついに発見することは無かった。…村人は二人が亡くなったあとも、探し続けたが…」

 私は彼女が文章の一部を飛ばしていることを直感で感じた。そして彼女の手から、本をひったくるように、取り上げた…。

 『翁自著にて曰く。今後朧愾茸を食すこと勿れ。いたづらに食せば刻は縺れ、溷濁し、自身発狂に至るなり。もしくは刻止まりて永劫の地獄を験するらむ。食すこと勿れ。朧愾茸は別名老鬼茸なり。この茸、刻を穿つ老鬼の仕業によりて生み出されし茸なりと。翁とその妻朧愾茸を食してから三日目に忽然と姿を消し、再び村に戻ること無し。出立を見た者もなし。囲炉裏に澳を残し、煮汁を入れし鍋を残し置き、忽然と姿消えたり。村人翁の屋敷の隅に翁とその妻を祭りて毎年秋のその日になると三日間、主に茸を供物として捧げてその霊を鎮め…』

 私は顔を上げて彼女を見た。彼女はもう私を見ていた。目と目が合った。彼女の瞳が少し潤んでみえた。私の瞳は彼女にはどう写っただろう…。私は『茸奇譚』を彼女に返した。無言の時が流れた。一つ咳払いをしてから、私が切り出した。

 「消えたって、どういうことだろう…。」

 彼女は答えなかった。いや、答えられなかったのだろう。

 この本には二人がもう一度キノコを食べたとは書いてなかった。ということは、もし本当に二人が消えたとするなら、食べないのに、消えてしまったということだ。「ロウキタケ食す事なかれ」と翁が書いた気持ちは、私には十分すぎるほど分かった。私だって書くだろう、「カオリタケはけっして食べてはいけない」と。

 私は書斎に行って、カメラを持ってきた。そしてフィルムを取り出し、彼女に渡した。そしてこのフィルムを預かって欲しいと頼んだ。もし…私が消えたら。

 「ダメッ!…」

 彼女を見ると、手で口を押さえ、瞳から大粒の涙を流している。

 何か方法があるはずだわ…と彼女は、頬を伝う涙を振り払うように私に言った。私はうなだれた首を振った。いい方法なんてあるわけが無かった。この現実は人間の理解を超えているのだ。理解を超えた問題に解決法なんて見つかるわけは無い。

 彼女がテーブルの上のカオリタケを手にとり、ラップをはずした。甘い香りが部屋に広がってゆく…。

 「やり直したいよ…」私は呟いた。呟いておきながら、私はなぜ自分がこんなことを言い始めたのか理解できないでいた。彼女が私を見つめた。私は自分の言葉の意味を探った。何をやり直したいのだ?。カオリタケを採った日からやり直したいのか?。それとも、今まで生きてきた人生をやり直したいのか…。

 「私もやり直したい…」彼女はそう言いながら目を落とし、寂しく笑った。彼女の表情には、彼女が今まで肩に背負ってきた深い悲しみや苦しみが感じとれた。こんな彼女を見るのも初めてだった。私は自分の中に彼女が急にいとおしくなった自分を発見した。彼女がもし自分の妻だったとしたら…。私の人生はまた違ったものになっていただろうか。そこに思いを走らせた時、私が無意識に発した言葉の意味が分かった。私は私の人生のほうをやり直したかったのだと。

 みんな、やり直したいよね、…私は言った。だけどね、やり直せないから意味があるのかもしれないんだよ。

 彼女は頷いた。何度も、何度も、頷きを繰り返した。

 

私はこの間、一つの決心をしていた。

 「お願いがある…」

 と私は彼女の手を取り、ソファーテーブルに掌を上にして置き、その上に自分の手を重ね合わせた。暖かな、そして優しい手であった。彼女は悲しげな翳りを眉に漂わせ、頷いた。

 「このキノコを…これから食べようと思う。」

 私は彼女に自分の意志を伝えた。彼女の瞳の奥で、一瞬戸惑いとも緊張ともとれる光が動いた。彼女には私の次の言葉が分かったのかも知れない。

 このキノコを食べて私が眠る間ずっと…この手をこうして握っていてもらえないか…と私は言った。彼女は無言で私を見つめ、そして大きく頷いた。彼女は一言も喋らなかった。そのかわり私の手を力強く握り締めてくれた。そしてその力が私の決断に最後の勇気を与えてくれたのだった。

私の決意にいたる思考は簡単であった。カオリタケを食べなくても消えるかもしれない。どこへ消えるのか知らないが。しかしもし今夜それが起こるのなら、せめてカオリタケを食べて、眠りの中でそれが起こって欲しいと思ったのだ。そして出来たら彼女にそれを見届けてほしいと思ったのである。それにカオリタケを食べて眠りにつけば、たぶん間違いなく明日も君に会えるだろう…、今日の君にね…。そう言いながら私は彼女に笑いかけた。私とすればそれが精一杯の、彼女に対する愛情表現だった。

 

 私は台所に行き、カオリタケをガス火に焙った。泉に水を汲みに行った翁は朧愾茸と名付けたかも知れぬが、私は私だ。カオリタケはなかなか美しい名前だろ?と私は彼女に明るい口調で言った。彼女はにっこりと微笑んで、うん、と頷いた。彼女の笑顔はとても久しぶりで、新鮮であった。小皿に乗せたカオリタケをもって居間に戻ると、居間にカオリタケのさらに香しい薫りが広がった。私も食べようかな…と彼女がイタヅラっぽく言った。出来ることなら私も勿論そうしたかったが、それはやはりやってはならないことであった。もう食べてしまった私が消えてしまうのは仕方がないが、彼女まで消してしまう訳にはいかないのだ。

 私はカオリタケを口に放り込んで一気に噛み砕き、飲み込んだ。甘い芳香とともにカオリタケは喉奥に消え、私はしばらく彼女の顔を呆然と眺めた。彼女も呆然と私の顔を、言いようの無い表情で眺めていた。

 一瞬の静寂の後、私は何かとてつもない、馬鹿げたことをしているような気分に陥った。キノコを食って消えるって?。消えてどこへ行くんだ。なあ佳代チャン!。

私は無性にはしゃぎたい気持ちになっていた。

ひょっとしたら宇宙かも知れないよ…。いつか宇宙人になって帰ってくるからね…。その時佳代チャンは白髪頭のお婆さんかな?。逆浦島太郎って訳だ。勿論私は今のままでね。ハハハ…それまで私を待っててくれるかい?。

 「待ってるわ…。」

 いつしか彼女の目からまた涙が溢れていた。

私は言葉を失った。

 窓ガラスの外は漆黒の闇。ソファーに座る彼女の白い着衣とのコントラストが目に焼き付いた。私はこの光景を無上に美しいと感じた。この光景は生涯忘れないだろう…。君が好きだ。…私は心の中で呟いた。そう、私はもしも生まれ変わったら、彼女と一緒に暮らしたい。彼女と生活を共にしたいと、心の底から願った。

 私はソファーに横になり、煙草を手にした。私の横で床に座った彼女がライターで火を付けてくれた。私は今度は自分が死刑囚になったような気分に陥っていた。考えてみれば、カオリタケを食べなければ、明日も次の日もこのままでいられるかも知れないのだ。

しかしそうはいかないのだ、と私は考え直した。カオリタケに決着を付けるのは今夜しかないのだ。彼女が私の傍に居てくれて、手を握っていてくれるなら、カオリタケを食べた後の自分がどうなるかということを、少なくとも、彼女は知ることが出来る。勿論私自身にはそれが分からないのだが、少なくとも彼女には分かるのだ。そしてそれが大切なことだ。そして食べないままもしも自分が消えてしまったとしたら、誰もカオリタケについて考察を加えようが無いまま、文字通り何もかもが消えてしまうのだ。

 これでいいんだよね…と私は彼女の手を握りながら言った。

彼女は小さく、何度も、まるで自分に言い聞かせるかのように首を縦に振った。私は今夜、彼女と心を通わせることが出来たことを幸せに思った。時間なんて糞くらえだ。刻がどんなに縺れようとも、自分を攪乱しようとも、私の今の気持ちこそが真実なのだ。私は彼女に微笑みかけた。もう睡魔が襲ってきていた。彼女はしっかりと気丈に…私の手を自分の両掌で包んでくれている。

 「さよなら…」

 私は睡魔と戦いながら、最後の力を振り絞って彼女に言った。彼女の温かい掌の感触を感じたまま…。彼女の声が遠くから微かに聞こえたような気がした。

 「私…待っていますから…」と。

 

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 私はついうとうとと、眠ってしまっていたのかも知れない。初秋の暖かな西陽に包まれて、こうやって縁側で肩肘をついて横になっていると、遠い昔にトンボを追いかけていた頃の自分が、脳裏にまざまざと蘇ってくる。一分先は分からないのに、遠い昔の出来事がつい一分前の出来事のように想い出されることもある。考えてみれば時とはあってないようなものだ。実在するのは自分の記憶だけなのかも知れない。

 会社を辞めて一年ほどになる。大きな会社であったから友人や周りの人が随分反対したが、結局辞めてしまった。もともと自分は会社勤めは向いていないと感じていたからだ。家内だけが賛成してくれた。収入が減るがいいか、と何度も訊いたが、私が働いて養ってあげるから…と、明るく答えてくれたのだ。そういう訳で、今は親父の残してくれた畑を耕し、サラリーマン時代とは違った、充実感のある生活をしている。

 私はのろのろと起き上がった。家内はオーストラリアに住んでいる娘のところに行っていて留守だ。せめて九州や沖縄なら私もついていけるのだが、オーストラリアでは遠すぎる。娘は家内に似て、思いやりのあるいい娘だが、好きになった人がオーストラリア人では仕方がない。「これからは英語ぐらいはちゃんと喋れるようにしておかないといけないぞ…」と娘に小学校時代から言い続けた結果がこれである。

 家内は私にはもったいないような女である。私たちは結婚以来二十数年間、鴛鴦夫婦と言われて過ごしてきた。私ももう今年で五十歳になったが、彼女のことは誰よりも愛している。

 庭を見渡すと、西側の隅にひょろひょろとしたキノコが数本生えている。私はキノコがさっぱり分からない。逆に家内はここら辺りではキノコの先生である。キノコの同好会の会長でもある。美人で、働きもので、きれい好きで、優しく、健気…。私は家内が家にいない時も居間のサイドボードの上に飾ってある家内の写真に、いつも言葉を掛けることにしている。毎年正月に一緒に撮った写真を、そこに一年間飾ることにしているのだ。つまり毎年写真を更新しているという訳だ。勿論家内と私の顔の皺も増えてゆくのだが、そこがまた良いのである。

 起き上がった私は居間に行って今日も写真に声を掛ける。

 「ちょっと畑に行ってくるからな、佳代。」

 

  H9.9.20〜H10.1.21                                     

 

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